なぜペリーは日本に来たのか?19世紀の世界事情を簡単に解説

歴史
Original caption: Commodore Matthew Calbraith Perry (1794-1858), the man who "opened Japan." From undated daguerreotype by Mathew Brady. ca. late 1850s USA

19世紀は西洋列強と呼ばれる国々が世界中に急速に植民地を増やした時代であった。

カギを握ったのはイギリスからはじまった産業革命であり、ヨーロッパ諸国がそれに続いた。文明の利器で数々の国を支配下においていった。

当時の日本は江戸時代。徳川政権が幕藩体制と「鎖国」をもとに国を治めていた。海外の目はもちろん日本も捉えていた。当時の日本をとりまく海外情勢、とりわけイギリスとアメリカ、中国について解説する。

なぜペリーは日本に来たのか。これを読めば理解できるだろう。

 

 

最初に結論からはいる。

19世紀の世界の情勢とアメリカの日本接近は以下のようになる。

①イギリスの産業革命・それに続く列強の産業革命

②綿製品市場を求めて列強(主にイギリス)アジアへ進出

③アヘン戦争により中国が列強のマーケットに

④中国進出への中継点としてアメリカは日本をターゲットに

また、捕鯨業の補給地としても日本と交易を結びたい

⑤アメリカ大統領の国書を持ちペリーが日本に来航

では、詳しく解説していこう。

 

イギリスの覇権

十九世紀は西洋列強が資本主義市場を獲得しようとアジアに進出した時期だった。その中でもいち早く産業革命を成し遂げたイギリスは別格だった。一八四〇年までのイギリスは世界の工業生産の半分近くを占め、二位のアメリカに追いつかれるのは一八八〇年になってからである。イギリスが世界の覇権を握っていた時代であった。主な輸出品は綿製品であり、一八三〇年には輸出総額の五〇%、一八五〇にはずっと低下するがなお四〇%を占める。綿製品のうち綿布の輸出先はヨーロッパからアジアに移っていく。ヨーロッパ諸国で産業革命が進展し綿工業が勃興したためイギリスからの輸入に頼らなくてよくなったのだ。結果としてアジア市場の開拓に乗り出すことになった。特に中国は三億の人口を誇り市場として大変魅力的だった。イギリスの中国への接近は一八四〇年のアヘン戦争につながり、以後西洋列強の中国市場進出が進んだ。このアヘン戦争は日本にも大きな衝撃をあたえた。そして中国の開港は日本への関心も増大させた。南京条約締結の後、イギリスの次の標的は日本だとの噂がヨーロッパで広がったが、中国内での外国人排斥運動やクリミア戦争の発端となるシュレスウィヒ・ホルシュタイン問題、またトルコ問題などが原因で日本への関心は薄まることとなった。

 

アメリカの中国進出

次にアメリカの様子をみていく。アメリカにとっても極東市場の中核は中国であり、主要な輸出品は綿製品だった。アメリカの綿工業は当時イギリスに次いで二位で、対中国輸出額はアヘン戦争以後非常に伸びている。同時期のイギリスの対中国輸出額は、換算するとイギリスの約半分に達している。当時の中国はイギリスとアメリカ両国の綿製品市場であり、競争状態だった。特にアメリカの成長は著しく、対中国貿易はイギリスとアメリカが中心で他国の追随を許さないものだった。しかしイギリスが貿易黒字だったのに対してアメリカは大きな貿易赤字だった。赤字分は主にロンドンで手形によって決済されていたため、その分がイギリスに対して赤字となっていた。しかし、アメリカには勝算があった。イギリスが中国に輸出していたのはインド綿だったがアメリカ綿に劣っており耐久性がなかった。つまり中国に今よりも効率的な貿易ができれば黒字にできると踏んでいたのである。そんな中、一八四八年に米墨戦争の結果としてカリフォルニアを奪取した。カリフォルニアから金鉱も発見され、西海岸側から太平洋を渡って中国へ向かう航路が計画された。遠洋航海のため石炭の補給地が必要となり、日本が適地とされた。つまり、アメリカからすれば日本の開国は対中国貿易のために必要だったというわけだ。

 

アメリカの捕鯨

それともう一つ理由があった。それは米国の捕鯨業である。独立以前は大西洋岸のニューイングランドを根拠地に行っていたが、独立後に太平洋に漁場に求めた。アメリカ北西海岸沖、オホーツク海、北極海に漁場を発見し進出していった。こうして十九世紀の四十年代から五十年代にかけて米国捕鯨業は隆盛期となった。二十年に捕鯨船は三万六千トンだったのが、四四年には二〇万トンを超えた。日本開国時期のアメリカ捕鯨の盛り上がりがわかる。しかし捕鯨船が太平洋上で盛んに出現するようになったため、日本へ漂流する捕鯨船が問題になった。一八四六年のローレンス号、一八四八年のラゴダ号の船員はそれぞれ択捉島、松前に漂着した。松前藩は彼らを長崎へ護送し、彼らは崇福寺に収容され厳重な監視のもとにおかれた。ローレンス号の船員はオランダ船で返され、ラゴダ号の船員はオランダから報告を受けた東インド艦隊によって強硬的に連れ帰られた。帰国した船員たちは長崎での劣悪な環境や厳しい監視などを報告し、日本への批判は高まった。この事も日本開国計画に拍車をかけた。

こうして中国の綿製品市場を狙う太平洋横断の補給地として、そして隆盛を誇ったアメリカ捕鯨業と漂流民の安全確保としてアメリカは日本に通商を求めたのである。

 

まとめ

冒頭でも表した通り、まとめると以下のようになる。

①イギリスの産業革命・それに続く列強の産業革命

②綿製品市場を求めて列強(主にイギリス)アジアへ進出

③アヘン戦争により中国が列強のマーケットに

④中国進出への中継点としてアメリカは日本をターゲットに

また、捕鯨業の補給地としても日本と交易を結びたい

⑤アメリカ大統領の国書を持ちペリーが日本に来航

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