フリーメイソンと日本人の「明治維新」

歴史

ローマカトリックに対するプロテスタント運動、ボストン茶会事件にはじまるアメリカ独立戦争、フランス革命。

革命あるところにフリーメイソンあり。

これらの革命には背後でフリーメイソンが動いている。アメリカ初代大統領ジョージワシントン、独立宣言を起草したベンジャミンフランクリン、フランス人権宣言を起草したラ・ファイエットら、さらにはモーツァルト、ゲーテ、ベートーヴェンらもメイソンリーである。

革命あるところにフリーメイソンあり。もちろん日本も例外ではなかった。

明治維新。そこにフリーメイソンの痕跡があった。

 

 

幕末前の動き

1779年、アイザック・ティチングが日本に来日した。彼は記録上、日本に初めて居住したフリーメイソンである。彼はユダヤ系オランダ人であり、東インド会社の社員であった。東インド会社はご存知、17世紀を席巻した西洋列強のアジア植民地会社である。

肩書は長崎出島のオランダ商館長。当時の商館長は東インド会社の社員とイコールであり、商館長というよりは東インド会社日本支社社長と考えた方がすっきりする。

明治維新が起こるのはティチングが来た100年後である。当時はまだ開国という発想自体がない時代。フリーメイソンの自由・平等・博愛とはかけ離れた封建社会だった。

ティチングは蘭学者・大槻玄沢などと交わり、西洋の思想を広めていった。その思想や知識は蘭学者たちにしっかりと伝わっていき、渡辺崋山や高野長英らへと引き継がれる。彼らの思想は幕末の開国派に多大なる影響をあたえる。

 

ティチングが日本を去った後、1853年にかの有名なペリーが来航した。

ペリーは1819年にフリーメイソンに加入している筋金入りのフリーメイソンリーであった。所属ロッジはニューヨークの「ホーランド№8」。

日本はペリーの要求と交渉し、港を開き交易を始めることとなる。

時代はこの時より、激動の時代にはいる。

 

 

トーマス・グラバー、日本の地を踏む

1859年、トーマスグラバーが長崎に到着。

英国のアヘン商社、ジャーディン・マセソン商会の代理業として日本で武器商社をはじめる。

幕末史を語る上で、この男は避けて通れない。非常に重要な役割を担った死の商人である。

彼はスコットランドの出身。スコットランドいえば、「思索的フリーメイソン」発祥の地だ。彼の父親は海軍中尉、後に沿岸警備隊司令官という役職になる男になる。フリーメイソンだという記録は今のところないが、メイソンリーであった可能性が高い。

というのも、英軍・米軍というものは伝統的にメーソンが多く、昔であればあるほど、メンバーにあらずんば上官になれずというあからさまな風潮があったからだ。そして、彼らが住んだアバディーンという土地柄もフリーメイソン密度の濃い町として知られている。16万人に満たない町で、ロッジは13を数える。ちなみに、サンフランシスコという大都市でさえロッジが12であったことを考えれば、いかに突出した人口比率か容易に想像できる。

 

グラバーは19歳のときに上海に出る。

その際に上海ロッジと関わったことが想像される。上海ロッジはアヘン商社のサッスーン商会、ジャーディン・マセソン商会、デント商会などが立ち並ぶウォーターフロントの通りにあった。

ロッジは様々な情報を得られる場所だ。政治家、学者、外交官、軍人、貴族、貿易商、船員など幅広い層のブラザー(メイソンリー)が集まるからだ。

グラバーがメンバーになったのは21歳のときだったと考えられる。フリーメイソンのルールで21歳以上が加入の条件だからだ。

しかし、グラバーが上海ロッジに入会申請を出した記録は現在残っていない。なぜなら、清国が共産主義国家に変わった瞬間に英国「上海ロッジ」は消滅し捜しようがないからだ。

しかし、グラバーがメイソンリーでなかったとするほうが、不自然で説明がつかないことがある。グラバーがジャーディンマセソン商会の代理業で日本に来たのが彼が21歳のとき。英国を代表する企業のいわば日本支店長に何も知らない21歳の青年をおくるとは思えない。そうだったとするほうが、説明ができなくなる。

彼は「上海ロッジ」のメンバーとして、ジャーディン・マセソン商会の代理業を請け負い日本に来たのだろう。

ちなみに、長崎出島にも「出島ロッジ」なるものが存在していた。その資料はオランダのデンハーグにあるフリーメイソン博物館にある。1805年にマルテン・マックという人物がオランダ領バタビア(現ジャカルタ)のラ・ベルチェウス・ロッジの門をたたき、

「長崎の出島ロッジで入会した。だからラ・ベルチェウス・ロッジにも入会したい」

と申し出たとの記録がある。持参した入会金の領収書には有名なヘンドリック・ドゥーフという出島の商館長の名前があり、申請が許可されたというのだ。つまり、出島ロッジが正式なものとして認められたということだ。

 

 

グラバーと幕末志士たち

長崎の丘の上にひっそりと建っている洋館。それがグラバー邸であった。グラバー邸には隠し部屋があることが有名だ。そこで志士たちと話し合いをしていたことも歴史家の認めるところである。

では、何を話し合っていたのか?

グラバーの目標は日本での自由貿易だ。そのためには完全に日本を開国させる必要があった。その準備を志士たちとしていたとみるのが妥当だろう。彼と関わった志士たちは後に幕府を倒し明治新政府の要職を務める面々だ。

その中でも、彼のした大きな事業であまり知られていないことがある。

薩摩・長州の志士たちのイギリス留学だ。

1863年、伊藤博文・井上馨・山尾庸三・井上勝・遠藤謹助の5人が英国留学に出航する。山尾の日記によればその日は5月12日であり、その日とは長州藩が攘夷決行として馬関攘夷戦争として外国船を砲撃した二日後のことである。

不思議に思わないだろうか。長州は外国と全面戦争の構えであるのに、裏では英国留学に行っている。仲介したのはグラバーだ。留学費用を肩代わりし、船はジャーディン・マセソンの船で渡英させた。この5人は後に長州ファイブと呼ばれる。全員が明治政府の要職を務め、伊藤博文は初代内閣総理大臣となる男である。彼らとグラバーが昵懇の仲だったことは明らかだ。

そして、次は薩摩の英国留学だ。1865年、薩摩藩は15名の留学生を英国へ留学させた。もちろんグラバーの手配である。もちろんジャーディン・マセソン商会あてに手形を発行した。留学生の中でも五代友厚・寺島宗則の二名はグラバーと昵懇の仲であった。留学生のロンドンでの世話係はグラバーの兄だった。グラバーの兄は五代と寺島を連れ出し、オリファント下院議員と接触させた。

 

 

日本人初のフリーメイソン

五代・寺島らの英国留学中、興味深い接触が行われている。

その相手は西周と津田真道。なにをかくそう西周は記録に残っている中で日本人初のフリーメイソンである。彼ら二人は幕臣としてオランダ留学をしていた。留学中にフリーメイソンと出会い、入会したのだ。

時代を考えてみて欲しい。薩摩と幕府は幕末の当時、いがみ合っている関係だった。なんとしても幕府を倒したい薩摩と、討幕派の取り締まりを強めていた幕府。対立関係にあったのだ。

そんな時代に、薩摩の五代・寺島と幕臣の西・津田が面会しているのだ。それも1日ではい。10日間にも及ぶ時間をかけて密会している。お互いの情報と今後の動きを話し合ったのは確かだ。世間話のためにこんな日数を共にすることは考えられない。お互い留学という限られた時間を費やしているのだ。無駄な時間は過ごせない。

五代の日記にはその記録がしっかり記されている。

 

1865年10月17日(旧暦)「和蘭(オランダ)へ来りし幕正両人当舎へ来る」

10月18日「幕生西、津田両人面会」その後19、25,26,27日と頻繁に会う。

10月28日「幕生弐名出立を送る」

 

日本ではいがみ合っていた薩摩と幕府。両者はパリという地で仲を深めていた。方やフリーメイソンのメンバー、方やアヘン商社ジャーディン・マセソン商会の財源によって。五代がメイソンリーだったとする人もいる。が、その記録は残っていない。

例に漏れず、五代、西、寺島、津田らは明治で要職に就くことになる。特に西は、帰国後は将軍徳川慶喜の側近になる男で、慶喜に大政奉還を助言し成功させた人物である。後の貴族院議員。

 

歴史の教科書ではほとんど語られない人物たちだ。歴史の裏で、藩の垣根を超えたつながりが存在していた。

 

 

英国諜報員としての志士たち

みてきたように、グラバーの息のかかった人物たちは明治維新の原動力となった。彼と親しかった人物は他にも坂本龍馬や高杉晋作ら多数いる。

当時、グラバー以外にも影響力をもった外国人がいた。外交官アーネスト・サトウと駐日大使パークスだ。彼らも彼らで情報収集のためスパイを駆使していた。

坂本龍馬、陸奥宗光、吉井幸輔、勝海舟、西周ら。

坂本龍馬暗殺についてはアーネストサトウとの食い違いが原因とする説もある。サトウは討幕を推し進める過激派だったが、龍馬は無血革命派だった。龍馬はパークス直属のスパイであったため、サトウとは意見が合わなかったとされるためだ。

龍馬ほどの人物の暗殺の真相が未だに謎に包まれているのは、大きな力が働いたと考えるのが普通だ。英国、もしくはフリーメイソンのお得意技、隠蔽だ。

 

事実、明治維新はグラバーらの息のかかった志士たちが成功させ、日本での貿易の道は広がった。

しかし、グラバーについては謎の部分が多い。

様々な手引きをしていたにも関わらず、名前がほとんど残されていない。

龍馬、博文、五代らはもちろん、三菱商事の祖でグラバーから援助をうけた岩崎弥太郎の日記にもほとんど出てこない。

明治維新後には勲二等旭日重光章を授与されているほどの人物なのに、素性がほとんど残されていない。

かれは『グラバー史談』でこう語っている。

「自分は終始思っていた。徳川政府の反逆児の中で、自分がもっとも大きな反逆人であった。」

そして、こう締めくくっている。

「自分に歴史はない」「自分の名前は出さないように」

 

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