「坂本龍馬暗殺」新選組説など2つの説を紹介!

幕末史において、龍馬の暗殺は今もなお謎が多く残る事件だ。

事件当日の経緯や人物など、様々な学者の方々が独自の角度から数多くの説を出している。しかし、数ばかり増えるばかりで真相は未だ闇の中。

そんな人々の興味を引く龍馬暗殺について、2つの説を紹介する。

 

 

その1 京都見廻組、今井信郎説

事件は京都で起こった。

1867年(慶応三年)、12月10日(旧暦11月15日)、天候は雨、寒い夜の九時過ぎのことである。

「松代藩の者だが」

現われた武士は、そう名乗った。

土佐藩御用達の醤油商、近江屋の玄関口である。

「へい」

大柄な藤吉が、軽く頭を下げる。藤吉というのは、龍馬のボディガード兼下僕で元相撲取りだ。

藤吉が身体を返し、二階にいる龍馬に取りつぐために階段を上る。武士四人がその後に続く。

二階には三人の龍馬の書生がいた。書生とは他人の家に泊まりこませてもらい、雑用をしながら勉学をする学生のような存在のことだ。いた場所は手前の六畳間である。

次の間に足を踏み入れる。

そこには龍馬ともう一人の人物、陸援隊隊長、中岡慎太郎が机をはさんで座っていた。行灯が一つ、ぼうっと室内を照らし、寒々とした壁に龍馬と中岡の大きな影をつくっている。

「坂本さん、しばらく」

武士の一人が声をかけた。

「どなたでしたかねえ」

怪しんだようすもなく、龍馬が答える。

と、その時、ひと呼吸遅れてなにか不審を感じたのだろう、武士の背後で書生たちがざわつきだした。と同時に、先頭の武士が、ためらいなく抜刀し、龍馬の左の銅を斬りつけた。刺客に変わった瞬間だった。

鮮血が吹き飛ぶ。刺客は間髪いれずに踏み込んで、右から腹を払う。

龍馬がウンと唸って倒れる。

続いて身体を反転させた刺客は、横にいた中岡の頭に刀を三度振り下ろす。中岡も、その場に昏倒する。

他の二人が剣を振り回して、書生たちを追い立てる。慌てふためいた書生は、窓から外に飛び出し、瓦屋根を伝って夜の京都の町に逃げ去った。

 

 

以上が今井信郎犯人説だ。

出典は明治33年の「近畿評論」で取り上げられた記事から「龍馬暗殺」の場面を再現したものだ。この発言者こそが、自分が犯人だと名乗った、元京都見廻組、今井信郎その人である。つまり、本人が犯人だと名乗り、記事となったのだ。見出しは「今井信郎氏実歴談」であった。

この説は本人の発言とされるため、信憑性が高いような気がしてしまうが、不自然さとリアリティのなさが見えてくる。

今井を含めた暗殺隊の4人は、二階に上がってすぐ、六畳間にいた書生3人と遭遇したことになる。ここで、藤吉と書生が顔を合わせているわけだから、挨拶くらいする。六畳間に書生3人がいる時点で、部屋はいっぱいいっぱいなのだ。会話なくそこを通れるはずがない。

しかし、龍馬と中岡の死にざまにはその様子はない。彼らは、警戒態勢にはいっていない状態で殺されている。

夜9時に大勢の足音が二階に上がってくる音、そして書生の部屋を通る会話があったと仮定し、警戒態勢に入らないわけがない。

そして何より書生の存在自体が怪しい。彼らは夜の京都の町に消えたという。どこへいったのか?暗殺の話はしなかったはずがない。ちなみに、この書生の存在は、数ある説の中でこの今井説以外には一切でてこない。創作とみていいだろう。

その上、今井は明治3年に龍馬殺害の容疑で刑部省の裁判にかかっており、その自供書と判決文の一部が残っている。それによると、自分は実行犯ではなく、1階の見張り役に立ったと自白している。つまり彼は30年の時を経て下っ端の見張り役から暗殺の主役へと変貌をとげたのだ。もちろん、当時は罪逃れのために嘘をついた可能性はある。

しかし、この「近畿評論」を呼んだ谷干城は「龍馬を斬ったなどというのは今井の売名行為だ」と激しい批判を行っている。なぜ彼が批判したかというと、谷はいち早く龍馬暗殺現場に駆け付け、まだ息のあった中岡から話を直接きいているのだ。

では、その谷の反論を紹介しよう。

 

 

 

その2 新選組犯人説

まず、谷の今井談批判は以下のようなものである。

一、今井は、自分も含め襲撃犯は4人と証言しているが中岡は二人だと言っていた。

一、今井は、松代藩の偽りの名刺を藤吉に見せ、警戒心を解いたと主張しているが、中岡によれば、松代藩ではなく十津川郷士の名刺だった。

一、龍馬と中岡が机を挟んでいたというのも嘘で、現場に机などなかった。

一、龍馬と言葉を交わしてから斬ったというが、そんなことはない。龍馬、中岡が二人で名刺を見ようとしているところへ「コナクソ」と叫んで斬りこみ、最初に襲われたのは中岡だった。

 

現場に駆け付けた谷という点で、信憑性は谷の名刺ほうがある。しかし、この反論の時期がおかしい。今井談が「近畿評論」にのったのは明治33年、しかし谷がこの反論をしたのは明治39年のことである。6年もの歳月を経て思い出したかのように批判するというのは腑に落ちない。

 

事件当初、嫌疑はまっすぐ新選組にかかった。

当然だ。新選組は、京都の治安維持を掲げ、勤皇派、討幕派を攻撃していたから、放っておいてもそういう流れになる。

だが、あからさまに火をつけたのは谷干城だった。

谷は土佐藩邸から惨劇現場に駆け付けたと言われるが、それによると唖然として顔を覗く谷に、中岡が息も絶え絶えにしゃべったという。

「賊は・・・おそらく新選組・・・」

現場には遺留品が落ちていた。犯人のものと思われる、蠟色の刀の鞘だ。

谷はその鞘を土佐藩邸に持ち帰った。それを目撃した伊東甲子太郎(元新選組)が事件直後、それは新選組のものだと証言したといわれている。

しかし、気になる点がある。鞘はほんとうにあったのか?

刺客たちはあっという間に龍馬と中岡を斬った手練れだ。そんな殺し屋が大切な鞘を落としたまま去るだろうか。そんなことをすれば、血のついた白刃をさらしたまま、京都の町を歩くことになり、各藩が神経をとがらせている当時の京都を思えば、現実的でないのだ。

そして、近江屋の通りを挟んだ目と鼻の先に土佐藩邸がある。はたして、鞘を落としたまま気づかれず、捕まらず逃げることができたのか。

 

 

 

 

真相を語る説は存在しない

以上が有名な京都見廻組、今井信郎説と、新選組説だ。

しかし、すでに反論したように、どちらの説も穴だらけで真実とは程遠いように感じる。

事件現場にいち早く駆け付け、現場を囲んだのは土佐藩士、海援隊、陸援隊など10名前後。

しかし、藩医を除いて、名前の挙がった全員が、お題目のように犯人は新選組だと言っている。もしくは間接的に新選組を匂わせる発言をしている。

しかし、それぞれの発言では、こまかなこととなると全ての人間の証言が異なり、つなぎあわせると、全体像が歪にきしんでくる。

そして明治で裁判にかけられたのが京都見廻組。

事件は時代の淀みに深まったまま時が過ぎ、何人かが口にし始めたのは明治33年以降。

全員が真相を語っていない。

それらをなんとかつなぎ合わせて「こうだったのではないか」としたのが、現在存在する様々な説なのである。

 

 

一応、定説となっている説があるため、最後にこちらを紹介しておく。

この機会に龍馬暗殺の雑学を深めてみよう。

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この記事を書いた人

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