AI社会はディストピアか。奪われる仕事

最近、AI(人工知能)の発達が目まぐるしい。AI技術を活用した商品やサービスも次々と世に現れている。

これからの世界はどうなっていくのだろうか。

2019年2月18日の日経新聞に面白い記事が載っていた。そこでは、歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏の書『ホモ・デウス』がテクノロジーの発展によるディストピア(反理想郷)のビジョンを紹介していいる。

 

 

 

 

ディストピアと聞けば、国家や組織などに人民がデータや身体上で支配され、独裁的な世界が繰り広げられている世界が思い浮かぶ。反体制派は瞬時に処刑される世界だ。

現実世界ではAIとテクノロジーの発達によって世界はめまぐるしく変化している。10年後には40%の職業がAIにとって代わられるとデータが示している。

この事実によって、我々人類は二極化する恐れがあるのは、私も感じるところである。

創造的な職業は人間にしかできないが、物理的に生産的な活動は全てAIがとって代わることができるだろう。そして、そのほうが遥かに効率的である。

こうなると、創造的・クリエイティブな能力がない人とある人に二極化されるのではないか、という考えだ。

この二極化が、将来人類を二分するかもしれない。

創造的な仕事ができない人は、どうなるのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

このディストピア的な考え方に対する反論ももちろんある。

日経記事から抜粋すると「格差の拡大はいずれ反転縮小するという「方向付けられた技術進歩」の理論」がそれである。

「産業技術の変化は、希少な生産要素を節約し、豊富な生産要素を多用する方向に進む」とされるもので、「19世紀、労働力が豊富で土地が希少だった英国では労働集約的な技術進歩が起き、その逆の米国では資本集約的な技術進歩が起きた」という例があげれられている。

つまり、AIに仕事を奪われた人が増えれば、その人たちを生産要素とした技術進歩が起こるという考え方である。

 

たしかにこの意見には賛同できる部分が多い。AIやテクノロジーに支配されるディストピアは、我々の現在の科学がそのレベルで、そのレベルの技術進歩によって社会が回っているに過ぎない。この先AIを凌ぐ技術の進歩があるかもしれない。そうなれば現在我々が思い浮かべているディストピアとは違うディストピアが想像されるようになるだろう。

つまり、AI社会は人類の終局ではないのだから、この先の技術進歩で職を失った人たちを生産要素にした技術進歩があるから大丈夫だ、という反論である。

しかし私が思うのはAIを凌ぐ技術進歩というものが実現されるのか、という部分である。もはや人類の技術の最高と呼んでいいものではないだろうか。AI自身で生産活動、流通、教育まで全て行えるからだ。

私はどちらかと言えば、AI国家のディストピアの方が可能性が高いと思う。

 

 

 

 

 

ディストピア論へのもう一つの反論として掲載されているのが、「可謬性(かびゅうせい)」すなわち「間違える可能性があること」を論拠としたものである。

AIが注目されている理由はディープラーニング(深層学習)によるものである。AIが自分で間違いを修正して学んでいくというものだ。これは、誤差を最小にする近似計算の手法である最小二乗法にすぎないとされる。

つまり、AIのディープラーニングは結局は誤差を最小限に収めるだけに過ぎない。

これが何を意味するかというと、「人やAIが作るあらゆる知は全て現実の近似であり、将来いずれ「間違いだった」と証明される可能性がある」ということである。

この考えに基づくと、AIが人民を支配するには技術的に物足りない可能性がある。

将来、可謬性をなくし無謬(間違いがない)の技術が開発された日に、我々が思っているディストピアが訪れるのだ、という反論である。

 

これはたしかに、と思わされる論である。

しかし、この世に無謬な存在が現れる日が来るとは現段階では到底思えない。

この世の全てのものが可謬性をもっている。

無謬な存在が生まれた瞬間にこの地球上の概念は根底から覆されることになる。それこそ今までの歴史や化学は使い物にならない過去の産物と化すだろう。

果たしてそんな存在が生まれる日が来るのか。来るとしてもあと何十世紀もあとのことではないか。

 

 

 

 

 

 

AI社会になり、全ての人間のデータが一カ所に集められ、人工衛星から位置を詳細に知られ、個人情報というものが筒抜けの世界ディストピア。

そうはならなくとも人類の貧富の二極化。

もしくは新人類の台頭とわれわれホモサピエンスの絶滅か。

どういった未来が待っているのか、私の感情は楽しみの中に不安も多く含まれている。

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