「二重スパイ」坂本龍馬の脱藩の真意

坂本龍馬の不思議なところは、人気と業績の明確さが比例していないところにある。

みな坂本龍馬=英雄・偉人というイメージをもっているが、具体的に何をした人なのか知っている人は少ない。その中でも謎に満ちているのが「脱藩」だ。

今回は龍馬の脱藩の真意を考察する。

目次

脱藩までの坂本龍馬の活動

龍馬の脱藩を語るには、それ以前の龍馬の活動から見ていく必要がある。

ペリーが浦賀に来航した1853年の年の3月、龍馬は江戸に着いた。19歳のときだ。彼は江戸ですぐさま北辰一刀流の千葉道場に通い始める。

といっても、熱心に剣術に励んでいた形跡はない。5年間かけてようやくもらった免状は初等科の、しかも薙刀であったことからそれがわかる。どちらかというと「砲術」習得に重きが置かれていた。実際、それも任務半分であったが。

龍馬の江戸行きは、藩の家老福岡家の『御用日記』にきちんと載っている。形こそ龍馬から、剣術習得願いが出されたことになっているが、下級武士からそんな大それた願いが出せるわけもなく、また受理されるはずもない。武家社会はそんな甘いものではなかった。

そこには藩の方針があった。

それは若者に剣術を習わせるというコスパの悪いものではなく、西洋砲術の習得と江戸の情報収集であった。当時、若者が江戸に出るということはそういうことであった。

時は幕末。敵は藩の内外にいて情報戦が繰り広げられている。そこで藩は何人もの密偵を江戸におくる。これは幕末期では当たり前となっていた。そこで19歳の龍馬にも白羽の矢が立ったというわけだ。

なぜ龍馬がスパイに抜擢されたのか

そこで疑問なのが、何故龍馬だったのかという点だろう。

そこには、龍馬の身分が関係してくる。龍馬の身分を厳密にいえば武士ではなく郷士である。郷士とは名字と帯刀を許されているだけで、家禄(藩からの手当て)がない。きちんと給料をもらっている武士とはそこが決定的に違う。

郷士は食べていくために自分で稼ぐ必要があった。手段は農業や商売だ。武士の皮をかぶった農民といってもいい身分である。

郷士には給料を出さなくてもいい。藩からしてみれば使いやすい存在というわけだ。その上密偵としてドジをしたとしても一介の郷士が勝手にやったことだと切り捨てることができる。郷士とはそういう存在だった。

簡単にいえば、藩にとって大変使い勝手のいい駒。それが郷士であり、龍馬であった。

こういう理屈から、幕末に活躍した人物は下級武士が多い。理由は密偵として活動し、見聞・人脈が広がり、その上スパイという重役に就けたからだ。

坂本龍馬、江戸にて勤王思想へ傾向する

上記の理由により、龍馬は一回目の江戸密偵を終え土佐に帰っていた。そこで前回の活動が認められ再度、密偵を命じられたということになるだろう。22歳の年である。

この2回目の江戸で龍馬は同じ土佐出身の武市半平太と密接に関わる。武市は龍馬より6歳年上。

龍馬と武市は江戸で蘭学者や革新的諸藩の話を聞き、勤皇思想に傾向していった。

幕府を倒し、天皇を戴く。

というのも、当時の江戸は様々な思想が飛び交う場所であった。その中でも高杉晋作や久坂玄瑞、佐久間象山などの革新的な人物も多数存在していた。情報収集が任務な以上、彼らの思想に触れる機会は少なくなかっただろう。

尊皇攘夷の志士が溢れる江戸で、龍馬は武市とともに勤皇思想に傾倒する。そして、彼らとつながりを深める。龍馬はこのころ、一年間の滞在延期願いを土佐藩に提出し承諾を受けている。

坂本龍馬、脱藩する

武市半平太は江戸の人脈と同市を募り、「土佐勤皇党」を立ち上げる。

土佐勤皇党とは、土佐藩を尊皇攘夷で統一させようとする結社のことだ。

武市はまず江戸で8名の加盟血判を集め、翌月急ぎ足で土佐に戻り、いの一番に血判を求めたのが龍馬だった。ここから土佐勤皇党に龍馬が深く関わっていたことがわかる。

土佐勤皇党の中心にいた龍馬は四国丸亀に飛ぶ。そこで丸亀藩の土肥大作、七助兄弟の家に転がりこむ。土肥大作は江戸で知り合った改革派だ。彼もまた丸亀藩の諜報員として江戸に出ていた。彼はその後丸亀藩内の改革派として立ち回り、明治元年、揺れ動く丸亀城を内側から無血で開くことに成功。その後は茨城県一帯の責任者となる。

龍馬は土肥から丸亀藩の同志が何人土佐勤皇党に見込めるか確認をした。丸亀藩の情勢を確認し、一度土佐へ戻る。

そして1862年、3月、龍馬脱藩。28歳の時である。

龍馬脱藩の真相

「脱藩」とは、藩という小国家の力が及ばない領地に逃げることをいう。

おおむね藩の司直に追われ、その手勢からの逃亡だが、龍馬は違う。龍馬が藩に対して罪に問われるほどの不祥事を起こしていたという形跡はみられない。

では、多くの書物に書かれている「見聞を広げたい」「自由に羽ばたきたい」という志からの脱藩かというと、これも怪しい。

厳格な武士社会において、一介の下級武士が世界を見たいという緊張感のない理由で脱藩などができただろうか。

脱藩には刑罰が伴うものである。それは本人だけでなく、当然家族にも及んだ。しかし、龍馬の家族が露骨に咎められたという話は伝わっていない。

なぜ、龍馬の家族は罪に問われなかったのか。

これを考える上で、2度の土佐藩密偵における藩との関わりが気になってくる。つまり、藩からの命令だったとみることができるのだ。

龍馬は脱藩後、土佐勤皇党の広報活動に従事する。しかし、そこには土佐藩の密偵という顔もあったということだ。

時の土佐藩は公武合体派と尊王攘夷派で二分されていた。公武合体派は吉田東洋という重役が権力を握り、かたや尊王攘夷派は武市半平太率いる「土佐勤皇党」だ。藩からすればどちらの勢力がどんな状態なのかを知りたい一心心だ。

龍馬は龍馬で脱藩という名目は有利に作用する。何よりも藩に縛られることがなくなるのだ。それこそ自由に行動できる。より勤皇派の奥深くへと疑われることなく潜りこむことができる。

藩からすれば龍馬は一介の下級武士。何かあればただの脱藩者として処分できる。

両者の利害関係の一致だ。

これこそ、龍馬脱藩の真相である。

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この記事を書いた人

文系で日本史専攻→システムエンジニア
情報処理安全確保支援士・AWSSAP
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