赤穂事件、赤穂浪士と武士道とは何だったのか?

赤穂事件。

また忠臣蔵ともいう。

元禄十四年の刃傷事件により切腹を命じられた藩主の家臣たちが、相手側の藩主の屋敷に討ち入りを果たした事件のことである。

見事討ち入りを果たした赤穂浪士は47人だったことから四十七士と呼ばれた。彼らは武士道を貫いた武士として名誉ある切腹をして果てた。そして江戸の庶民も拍手喝采で称えたという。

この赤穂事件について私なりの武士道解釈を述べたい。

 

 

 

 

 

まず赤穂事件について簡単に概要を説明したい。

元禄十四年、時の将軍は5代将軍綱吉である。悪法として名高い生類憐みの令を出し犬公方と呼ばれた人である。実際、悪政と呼ばれた彼の後半の治世も見直される動きがある。

赤穂事件の発端は徳川家と天皇家との儀礼にあった。徳川幕府は新年になると必ず天皇に使者を送った。そして天皇側も使者を送り幕府に応えるという習慣があった。

そしてこの時期、幕府の使者として遣わされたのが吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)であった。そして天皇の使者を出迎える役割だったのが赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)であった。

天皇の使者を出迎えるにあたって、割とめんどくさいしきたりが色々あった。それを大名たちは覚えていないので、その役割になると、高家と呼ばれるしきたりを知っている人から教えてもらうことになっていた。当時は高家筆頭が吉良上野介であった。つまり、浅野内匠頭は吉良上野介にしきたりを教えてもらわなければならなかった。

しかしここで問題が発生する。その問題という大事な部分は実は様々な説があって一つ定まった理由はないが、要は吉良が浅野に意地悪をしたりしきたりを教えなかったりした。理由は当時当たり前になっていた「賄賂」を浅野が吉良におくらなかったことだとされている。がこれも諸説ある。

色々言われているが、吉良と浅野の関係が良くなかったことは確かである。そして元禄十四年三月十四日、江戸城内で刀を抜いて切りかかってしまった。ちなみに浅野という男は短期で感情に走りやすい男であった。

江戸城内では絶対に刀を抜いてはならないという掟があったこと、そして大事な天皇との行事に支障が出たことで綱吉が激怒し浅野内匠頭は即日切腹となった。しかし、喧嘩両成敗が暗黙の了解だったにも関わらず、吉良上野介に関してはお咎めなしだった。

逆に赤穂藩は赤穂城・領地没収となった。要は赤穂藩士たちは全員無職になってしまったわけである。そして浅野家も存亡の危機になった。しかし喧嘩両成敗の相手吉良はお咎めなしということになり、赤穂藩士たちは立ち上がったという次第である。そして最終的に吉良上野介を見事討ち取ったのである。

赤穂浪士を率いた大石内蔵助(おおいしくらのすけ)の蔵の字をとり、「忠臣蔵」とも呼ばれる。

 

 

 

 

 

 

 

以上が非常に簡略化した赤穂事件の概要である。

見てわかるように、事の発端は浅野側に非がある。浅野が感情にまかせて江戸城内で刀を抜いてはならないという掟を破り切りかかるという破天荒な行動が全ての始まりだった。

普通に考えれば浅野はやばいやつである。

実はこの浅野内匠頭の家系は土岐家という家に繋がっており、そこもまた気が荒い一族である。室町時代に守護大名として最盛期を誇り、美濃・尾張・伊勢の三国を治めた。そして上皇に対して弓を射ってしまったことがあります。この事件は当時土岐が絶大な力をもっていたため首謀者のみ斬首されほかは無罪放免、なかったことにされました。そしてこの土岐の血を引いたのが織田信長を討った明智光秀です。彼も信長暗殺の動機はいろいろささやかれますが、短気という面は推測に欠かせないものとなっています。そしてその土岐の血が江戸時代に残っているのが浅野家なのです。

こういった上司をもつと部下は大変です。上司の起こした事件によって部下は無職になってしまった。

しかし、そこで家臣が立ち上がり喧嘩相手を喧嘩両成敗を理由に討ち入ったことは武士道の美談となるわけである。

 

 

 

 

 

 

 

私は、この赤穂浪士の武士道は好きである。

君に仕え、君の仇を討ち、武士として切腹をして果てる。

美しい武士道そのものである。

この切腹という文化は、なんと特殊なものかとつくづく思う。

何をするにしても失敗や恥に繋がる事に至ってしまえば皆、腹を切ったのである。

この世界では一つ一つに命をかける必要があった。だからこそ、自分の考えは曲げないし、やり通す人たちが多かったのだろう。自分が間違っていたとなれば切腹となるからだ。

さすがに今の時代に切腹のような自己責任の取らせ方は現実的ではないが、それくらいの責任感を持っている人がトップの座に全くいないと感じる。

命をかけた責任があるからこそ、幕末から明治初めにかけて様々なドラマ、武士道を日本に各地でみられた。みなそれぞれ自分の信念と責任があったのだ。

赤穂浪士も吉良上野介がお咎めなしだったことに抗議するため立ち上がり、責任をもって事を成した。そして、江戸の町での殺人をした罪として切腹して責任をとったのだ。

何と虚しい人生かと思う人もいると思うが、これくらいの「義」をもっているのは美しいことではないだろうか。

現代社会の政府や企業の役員以上の人たちには、こういった「義」をもって日本の未来に責任をもって行動してほしいと切に願う。

 

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