人生は短く、限られた時間の中で私たちは何を成し遂げるかが重要です。
セネカの言葉は、その短い人生をどのように価値あるものにするかについて深い洞察を与えてくれます。彼の名言を通じて、人生をより意味あるものにするための知恵に触れてみましょう。
特に、人生の意味や目標について考える方や、自己啓発に興味のある方におすすめです。
セネカの人生観とは?
1.1 セネカの哲学とは?
セネカ(Lucius Annaeus Seneca)は古代ローマの哲学者であり、ストア派哲学の重要な代表者の一人です。彼の哲学は倫理的であり、人間の幸福や美徳の追求を重視しました。セネカの哲学は人間の苦悩や困難に対処する方法を提供し、内面の平穏や心の安定を追求することを目指しています。
1.2 セネカの人生観の特徴
セネカの人生観の特徴は、一貫して人間の限られた時間とその有効な活用に焦点を当てています。彼は人生の短さと不確実性を強調し、その短い時間を有意義に過ごすための助言や洞察を提供しました。セネカの人生観は、自己啓発や人生の目的について考える上で重要な指針となっています。
「人生の短さについて」の名言集
2.1 名言1:「人生は長くない」
人間に与えられた寿命は決して短くはない
人間に与えられた寿命は決して短くはない。私たち自身が寿命を浪費しているのである。人生は十分に長いのである。上手に使えば、偉大なことをいくつも成し遂げられるほどたっぷり与えられている。
しかし、ぜいたくや、いいかげんなことに浪費したり、よくない目的のために使っていたりすると、最後の必要に迫られたときに、時が足早に過ぎつつあることに気づき、時すでに遅いことを思い知らされるのだ。
やりたいことはなんでも達成できる時間は人生には与えられている。寿命は決して短くはない。
「人生は長くない」とは正反対の言葉ですが、この文章の最後にはこう続きます。
しかし、ぜいたくや、いいかげんなことに浪費したり、よくない目的のために使っていたりすると、最後の必要に迫られたときに、時が足早に過ぎつつあることに気づき、時すでに遅いことを思い知らされるのだ。
学校や本、著名人の講演など、どこかで一度は似たような話を聞いたことがある内容ではないでしょうか。要は人生において必要でないことに時間を費やしてしまうと、人生はあっという間に過ぎ去ってしまうということをセネカは言いたいのです。
古代ローマも現代も人間の、また人生の本質は変わらないのですね。
かくいう私もスマホゲームに時間を費やしたり、Youtubeで動画を見続けてしまったりと、まさに時間の浪費をしていることがあります。現代はこういった「時間を浪費させるもの」が豊富なため、それらとどのように距離を置き、自分自身に向き合う時間を確保するかが非常に大切だと感じます。
セネカ自身が影響を受けた言葉
人生の中で、我々がほんとうに生きる部分は実にわずかである。他の部分は人生ではなく、単なる時間の浪費にすぎない。
この一文は、セネカの『人生の短さについて』にて引用されている文で、セネカが影響をうけた詩人の言葉だといっています。
生きていることと、浪費していること。それは、将来になり過去を振り返らないとわかりづらい。今、自分が時間を浪費しているのか、それとも生きているのか。
リアルタイムでは分かりづらいのが、この言葉の難しいところだ。
時間の浪費家
人は、こと財産を守るとなるとケチになるが、時間についてはたいへんな浪費家である。
人生何に時間を使ったか
「あんたもいいかげん年をとったねえ。もうすぐ百歳だ。ところで、あんたの人生を振り返って計算してみてくれ。質屋通いにどれだけ時間を使ったか、奥さんやお客さんとの対応に、あるいは夫婦喧嘩や公務で市内を駆け回るのにどれだけ時間を使ったかを考えてみて欲しい。
自分の不注意でかかった病気にかけた時間、怠けたり何もしないで過ごした時間も計算に加えてくれたまえ。すると、これはよくやったといえる時間が思ったより少ないのに気づくだろう。自分は確固とした目的を持ったことがあったか。自分が意図したとおりに過ごした日々のなんと少ないことか。あんたが思い通りに行動できたのはいつのことだったか。あんたが自然な表情をしていたときや、あんたの心が平穏であったときのこと、あるいは長い人生の間にあんたが成し遂げたことを考えてみてほしい。
自分ではそんなに失ったと思っていないのに、あんたの人生がどれだけ多くの人に盗み取られていたことか。何の役にも立たない悲しみやばかばかしい喜びに、貪欲さに、世の誘惑に、どれだけ多くの時間をさいていたことか。そして最後に、あんたに残された自分のための時間がなんと少なくなっていたかを、記憶をたどりながらじっくり考えてみてくれないか。
するとあんたは、未熟なまま死のうとしている自分の姿に気づくだろうよ。
永遠に生きようとしている
人は、まるで永遠に生きることを運命づけられているかのように信じて暮らしている。自分の心に潜む薄志弱行の性格を省みることもなく、不注意のうちにやり過ごしてきた時間がいかに多いかを考えてもみない。
長くこの世に存在してきたに過ぎない
白髪をいただいてしわが寄ってくるという理由だけで、その人は長生きをしてきたと考えるのはいわれのないことである。それは長生きしたのではなく、長くこの世に存在してきたというのにすぎない。
人生は音を立てず終わりへと向かっている
人生はスタートした道を一途に進み、逆戻りすることも立ち止まることも許されない。時は物音ひとつ立てないから、人はその速さに気づかない。音もなく過ぎ去る。たとて王の命令であろうと、あるいは民衆が拍手で訴えようと、時はアンコールに応えてくれない。出発の日とまったく同じ調子で走り続ける。どこかで脇道にそれたり、道草をくったりすることもない。人が時間を無駄にしている間に、人生は急ぎ足で過ぎ去り、死が近づいてくる。
その日はその日のうちに捕まえる
詩人は言う。「なぜ人はぐずぐずするのか?なぜ怠けるのか?その日は、その日のうちにつかまえなければ逃げ去ってしまうのに」と。
2.2 名言2:「人生は何も急ぐ必要はない」
自分を見つめようとしない
立派な人物というものは、一見横柄な顔つきをしていても、相手を分け隔てなく向かい合い、あるときは謙虚に耳を傾け、またあるときはそばに招き寄せてくれる。自分を見つめようとせず、自分に対して耳を貸そうともしないのは、実はあなた自身なのである。
自分の時間は増やすことができる
千年も万年も生きたいと願っているくせに、人は自分で自分の生命を縮めている。しかも、その理由をだれもわかっていない。それは、人間の悪徳が時間をどれだけでものみ込んでしまうからである。あなたが持っている時間の空間は、もともと足早に過ぎて行くものであるが、理性をもって処理すれば引き延ばすことができる。それなのにあなたは、この空間をしっかりつかまえて引き戻そうともしないし、またブレーキをかけようともしない。まるで不用品か、いくらでも補充がきくもののように思って、どんどん過ぎ去る時にまかせているのである。
聡明な人の人生は長い
実に多くの偉人たちが、余計なものはわきに寄せ、富も仕事も快楽も放棄して「いかに生きるべきか知ること」を生涯の唯一の目的として取り組んできたが、たいていの人は、「まだわからない」と告白しながらこの世を去っていった。まして、他の人々は、ほとんど人生を知らないままに死んでいくのだ。
凡人が陥りやすい欠点もなく、寸時も自分の時間を無駄にしない人物でなければ人生は理解できない。彼らは自分に与えられた時間をすべて自分に役立つように使うから、その人生はたいへん長い。一刻もおろそかにせず、無駄にもしない。これ以上のケチはないと思えるほど時間を大切にして、わずかの時間すら他人まかせにはしない。自分の時間と交換するに値するものは存在しないとさえ考えている。だから賢明な人の人生は長い。
自分の生命を他人に盗み取られている
しかし自分の生命を他人に盗み取られている連中は、当然のことながら短命に終わる。しかも彼らは、ふだん生命を無駄にしているのに気づかない。
高官の地位を望んでいた男が、いったんその官職につくと、束桿をわきに投げだしたくなり、「今年はいつになったら終るのかねえ」と繰り返し嘆息する。公党競技会の執行を委託されているあの高官は、そのような地位を獲得したことを誇りに思ってはいるものの、「いつになったらこの仕事から離れられるんだろう」と愚痴をこぼす。ある弁論家はどの大広場でももてはやされ、声が届かないほどの大観衆が広場を埋めるが、「いつになったら休暇がとれるんだろう」と嘆く。人はみな足早に人生を歩む。今日に倦んで明日をあこがれる。
今日は二度と巡ってこない
自分のすべての時間を自分の内なる要求に合わせて使い、今日を二度とめぐってこない一日として計画する者は、明日を待ち望みもせず明日を恐れもしない。
時間の価値に気づかない人
他人の時間を欲しがる人や、時間を求められると寛大に与える人を見ると、私は不思議でならない。彼らの注意は時間を必要とする対象物に注がれていて、時間そのものにはまったくの無頓着である。他人に要求している時間も他人に与えようとしている時間も、どちらも無価値なものだと考えているらしい。世の中でいちばん貴重なものを、人々は粗末にしている。時間は無形で目に見えないから、人はその価値に気付かないのだ。
2.3 名言3:「人生は不安定なもの」
60歳を過ぎたら仕事を辞める?
「50歳を過ぎたら気楽に暮らすとしよう。60歳を過ぎたら公務から退こう」という人々の声を聞いたことがあるだろう。そう願ってはいても、果たして人の生命はいつまでも続く、という保証が与えられているだろうか?人生の残り時間を、自分自身を生きるために充てよう、知力を磨くためには、仕事をし終えてからの人生を振り当てることにしよう。
こんな考え方を、あなたはみっともないとは思わないのか?
いかに生きるか、死ぬかを学ぶ
人間は興味が分散するとものごとを深く理解することができなくなり、詰め込まれるものを受け付けなくなる。生きるということほど忙しく、また習得の難しい技芸は他に類を見ない。他の技芸については、どこにも多数の教師がいて教えてくれる。ある種の技芸については、幼い少年たちでさえ完全にマスターして教師を務めている。しかし、いかに生きるかを学ぶには一生かかる。そして不思議に思われるかもしれないが、いかに死ぬかを学ぶにも一生かかるのである。
時間を惜しむようになるのは遅い
人々は年金や失業手当を大事だと思うから、それを得るためにあらかじめ労働やサービスや努力を出し合って蓄積する。しかし時間は無価値だと思っているから、気前よく消費してはばからない。ところが同じ人間が、病気になり死期が近づいたとなると医者にしがみついて延命を懇願する。また、死刑を宣告される恐れがあると生き延びるために全財産を惜しげもなく使おうとする。人の心はまことに気まぐれである。もし、未来の歳月をあらかじめ自分の前に並べて置くことができれるならば、人々はその残り少なさにあわてふためき、急に時間を惜しむようになるだろう。
目標の先延ばしこそ人生最大の浪費
先見性を自慢する人がいるが、この人たちの考え方ほどばかげたものはない、と私は思う。彼らの未来のよりよい生活を願って、忙しく働き続ける。将来の生活を準備するために生命を浪費する。彼らは遠い将来を見通して目標を立てる。しかし、目標を先延ばしにすることは人生最大の浪費である。「先延ばし」は、訪れてくる日々を彼らから奪い去り、現在をかすめ取る。
名言を通じて考える人生の意味
3.1 人生の短さについての深い洞察
人生の短さに関する洞察は、古代の哲人から現代の思想家までさまざまな文化や時代で議論されてきました。これは、生命の限られた時間を貴重な資源として見なし、より意識的に生きるための重要な考え方です。
人生の短さとは何か?
人生の短さとは、人間の生存期間が有限であるという事実を指します。この洞察は、日常生活の中での時間の経過や、突然の死など、人々の生活において常に感じられるものです。歴史的に、人々はこの短さに対してさまざまな反応を示してきました。中には、この短さを悲観的に捉え、人生の意味を問う者もいます。一方で、人生の短さを前向きな視点から捉え、より充実した生き方を追求する人々もいます。
洞察とは何か?
洞察とは、ある事柄や状況に対する深い理解や見識を指します。人生の短さについての洞察は、生命の限られた時間を意識し、その重要性や貴重さを認識することです。この洞察は、人々が日々の生活や目標設定において、より意味のある選択をする手助けとなります。
洞察を生活に活かす方法
人生の短さについての洞察を生活に活かすためには、以下のような方法があります:
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目標設定と優先順位の明確化: 限られた時間の中で、本当に重要なことに焦点を当てるために、自分の目標や価値観を明確にしましょう。
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現在を大切にする: 過去や未来ではなく、現在の瞬間を大切にすることで、人生の豊かさを実感することができます。
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人間関係の大切さを再確認する: 愛する人や大切な人々との時間を大切にし、コミュニケーションを深めましょう。
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成長と学びの機会を追求する: 人生は学びの連続です。新しい経験や知識を積極的に追求し、自己成長を促進しましょう。
人生の短さについての洞察は、人々に生きる上での貴重な指針を提供し、より充実した人生を築くための一助となります。
3.2 名言を通じて考える人生の意味
人生の短さについて、の要点は以下の通りです。
- 要点1
人生において時間は十分に与えられていないと多くの人は考えているが、それは私たちが多忙に生きることで時間を浪費しているからだ。人生には有効に活用できるための十分な時間が与えられている。 - 要点2
自分の人生を生きるためには、時間を他人に与えてはならず、自分自身のためだけに使わなければならない。閑暇な時間は、退屈潰しのために浪費するのではなく、過去の英知を学ぶために使われるべきだ。 - 要点3
周囲と比較して心が不安定になるときには、今置かれた環境に慣れて、出来ることに力を尽くし、休息や閑暇とうまくバランスのとれた生き方をすると良い。
主題として人生を無駄にせず過ごすことを掲げて書かれたものです。無駄な人生の使い方について鋭く釘を刺しており、「浪費」という言葉を何度も使用されています。
本書は自分の人生を考えたときにハッとさせられたり、後ろめたい気持ちになったりするほど、自分のことを言っているかのような気持ちになります。
自分の人生もあっという間に過ぎ去っていくものだと自覚し、自分の時間の使い方を見直すきっかけになりました。
次の章では、私のメモ書きレベルのものです。読み飛ばしてしまって構いません。
3.3.名言に関する所感
時間を無駄にしてはいないか。はっと我にかえる言葉だ。
やりたいことはなんでも達成できる時間は人生には与えられている。
自分自身で、自分の時間を無駄に浪費してはいけない。
この文は最後にこう続く。
しかし、ぜいたくや、いいかげんなことに浪費したり、よくない目的のために使っていたりすると、最後の必要に迫られたときに、時が足早に過ぎつつあることに気づき、時すでに遅いことを思い知らされるの
人生の中で、我々がほんとうに生きる部分は実にわずかである。他の部分は人生ではなく、単なる時間の浪費にすぎない。
この一文は、セネカの『人生の短さについて』にて引用されている文で、セネカが影響をうけた詩人の言葉だという。
この類の格言は他にも多くの偉人が残している。
生きていることと、浪費していること。それは、将来になり過去を振り返らないとわかりづらい。今、自分が時間を浪費しているのか、それとも生きているのか。
リアルタイムでは分かりづらいのが、この言葉の難しいところだ。
立派な人物というものは、一見横柄な顔つきをしていても、相手を分け隔てなく向かい合い、あるときは謙虚に耳を傾け、またあるときはそばに招き寄せてくれる。自分を見つめようとせず、自分に対して耳を貸そうともしないのは、実はあなた自身なのである。
立派な人物というのは分け隔てなく人と向かい合い、耳を傾ける。
それは、自分自身と向き合った人物にこそできると言っている。
自分を見つめなおし、自分の本心に耳を傾けてみると、自分の人生が浪費から「生きる」ことに変わるのかもしれない。
人は、こと財産を守るとなるとケチになるが、時間についてはたいへんな浪費家である。
お金は誰しも節約する。しかし、時間はどうか。湯水のように浪費している人もいるだろう。
セネカが生きたのは紀元前、現代とは生活が全く違う。今では時間を浪費しようと思えば無限にできてしまう。インターネットの登場がそれを可能にさせた。
お金を節約することと同じものとして、時間の節約も頭に入れなければならないかもしれない。
「あんたもいいかげん年をとったねえ。もうすぐ百歳だ。ところで、あんたの人生を振り返って計算してみてくれ。質屋通いにどれだけ時間を使ったか、奥さんやお客さんとの対応に、あるいは夫婦喧嘩や公務で市内を駆け回るのにどれだけ時間を使ったかを考えてみて欲しい。
自分の不注意でかかった病気にかけた時間、怠けたり何もしないで過ごした時間も計算に加えてくれたまえ。すると、これはよくやったといえる時間が思ったより少ないのに気づくだろう。自分は確固とした目的を持ったことがあったか。自分が意図したとおりに過ごした日々のなんと少ないことか。あんたが思い通りに行動できたのはいつのことだったか。あんたが自然な表情をしていたときや、あんたの心が平穏であったときのこと、あるいは長い人生の間にあんたが成し遂げたことを考えてみてほしい。
自分ではそんなに失ったと思っていないのに、あんたの人生がどれだけ多くの人に盗み取られていたことか。何の役にも立たない悲しみやばかばかしい喜びに、貪欲さに、世の誘惑に、どれだけ多くの時間をさいていたことか。そして最後に、あんたに残された自分のための時間がなんと少なくなっていたかを、記憶をたどりながらじっくり考えてみてくれないか。
するとあんたは、未熟なまま死のうとしている自分の姿に気づくだろうよ。
人類屈指の言葉だと思っている。
初めてみた時、ぶん殴られたような衝撃が走った。
自分が100歳になったとき、記憶をたどったとき、自分が未熟なまま死のうとしている事に気づけば、それこそ死ぬほど後悔するだろう。
何に時間を使っていくのか。
この言葉は、一生胸に持っておこうと決めた言葉だ。
人は、まるで永遠に生きることを運命づけられているかのように信じて暮らしている。自分の心に潜む薄志弱行の性格を省みることもなく、不注意のうちにやり過ごしてきた時間がいかに多いかを考えてもみない。
人間は永遠に生きるわけではない。
そんな当たり前なことを、生活していると、ふと忘れてしまう時がある。
仕事が忙しいとき、学校が忙しいとき、悩んでいるとき、、、少なくないタイミングで、この当たり前の事実を忘れてしまう。まるで、永遠に生きれるかのように時間をつかってしまう。
人生は、永遠ではない。
「50歳を過ぎたら気楽に暮らすとしよう。60歳を過ぎたら公務から退こう」という人々の声を聞いたことがあるだろう。そう願ってはいても、果たして人の生命はいつまでも続く、という保証が与えられているだろうか?人生の残り時間を、自分自身を生きるために充てよう、知力を磨くためには、仕事をし終えてからの人生を振り当てることにしよう。
こんな考え方を、あなたはみっともないとは思わないのか?
「退職してから~をしよう。」
という言葉は大変耳にする言葉だ。
あたかも退職後には自由な時間があるような、あるいは退職後には無限の時間が待っているようなニュアンスが含まれている。
こういった考え方を、セネカはみっともないと切り捨てる。
自分の人生の時間を、自分に振り当てないのはみっともないことだ。
この文は後にこう続く。
もうそろそろ人生の幕を下ろさなければならない時になって、本当に生き方を始めようとは、遅きに失するではないか。大切な計画の実行を50,60歳まで延期するとは、また、少数の人間しか到達できない年齢になってから本当の人生を始めようとは、人の生命に限りがあることを忘れた愚行というほかない。
千年も万年も生きたいと願っているくせに、人は自分で自分の生命を縮めている。しかも、その理由をだれもわかっていない。それは、人間の悪徳が時間をどれだけでものみ込んでしまうからである。あなたが持っている時間の空間は、もともと足早に過ぎて行くものであるが、理性をもって処理すれば引き延ばすことができる。それなのにあなたは、この空間をしっかりつかまえて引き戻そうともしないし、またブレーキをかけようともしない。まるで不用品か、いくらでも補充がきくもののように思って、どんどん過ぎ去る時にまかせているのである。
自分の時間を、自分で決めている人はいる。
何時に起きて、何時に何をして、何時に寝る。それを守ることは難しいため、だいたいは長続きしない。
しかし、自分の時間管理をすることは非常に大切なことなのだと、セネカの言葉をきいて思う。
その日のタイムマネジメントをしていなければ、やらなければならないことを、やらないまま、その日を終えてしまうかもしれない。それこそ、セネカのいう、時間の浪費なのだと、私は考える。
人間は興味が分散するとものごとを深く理解することができなくなり、詰め込まれるものを受け付けなくなる。生きるということほど忙しく、また習得の難しい技芸は他に類を見ない。他の技芸については、どこにも多数の教師がいて教えてくれる。ある種の技芸については、幼い少年たちでさえ完全にマスターして教師を務めている。しかし、いかに生きるかを学ぶには一生かかる。そして不思議に思われるかもしれないが、いかに死ぬかを学ぶにも一生かかるのである。
いかに生きるかを考えるコツは、いかに死ぬかを考えることなのかもしれない。
何事もゴールを決めて、そこから逆算して日々の日課を割り振るのが効率がよい。
それと同じで、いかに死ぬかを決めてしまえば、どう生きるかも見えてくるのではないだろうか。
実に多くの偉人たちが、余計なものはわきに寄せ、富も仕事も快楽も放棄して「いかに生きるべきか知ること」を生涯の唯一の目的として取り組んできたが、たいていの人は、「まだわからない」と告白しながらこの世を去っていった。まして、他の人々は、ほとんど人生を知らないままに死んでいくのだ。
人生とはどうあるべきか。
ただそれだけを探求してきた人は、それにたどり着かず死んでいった。まして、一般に生きる人は自分がどんな人生を歩んでいるのかを知らずに死んでいくのだと。
難しく考えてしまうと一生を費やしてしまう難題なのは確かだ。
凡人が陥りやすい欠点もなく、寸時も自分の時間を無駄にしない人物でなければ人生は理解できない。彼らは自分に与えられた時間をすべて自分に役立つように使うから、その人生はたいへん長い。一刻もおろそかにせず、無駄にもしない。これ以上のケチはないと思えるほど時間を大切にして、わずかの時間すら他人まかせにはしない。自分の時間と交換するに値するものは存在しないとさえ考えている。だから賢明な人の人生は長い。
「自分の時間と交換するに値するものはない」
この言葉は我々日本人がしかと胸に刻むべき言葉だろう。
日々、どれだけの時間を自分以外のものに費やしていることか。だから、1年が過ぎるのを毎年のように早く感じるのだろうか。
この文は最後にこう続く。
しかし自分の生命を他人に盗み取られている連中は、当然のことながら短命に終わる。しかも彼らは、ふだん生命を無駄にしているのに気づかない。
高官の地位を望んでいた男が、いったんその官職につくと、束桿をわきに投げだしたくなり、「今年はいつになったら終るのかねえ」と繰り返し嘆息する。公党競技会の執行を委託されているあの高官は、そのような地位を獲得したことを誇りに思ってはいるものの、「いつになったらこの仕事から離れられるんだろう」と愚痴をこぼす。ある弁論家はどの大広場でももてはやされ、声が届かないほどの大観衆が広場を埋めるが、「いつになったら休暇がとれるんだろう」と嘆く。人はみな足早に人生を歩む。今日に倦んで明日をあこがれる。
出世すれば、上り詰めれば、自分の求めている世界が手に入ると思いがちだ。
しかし、現実はそうではないことのほうが多い。役職が上がれば責任も仕事も大きくなる。今よりも自由な時間は減る可能性の方が高い。
そうなればもう逃げられない。人生は足早に過ぎていくのみ。
そうならないためには、その仕事が自分の天職と呼べる必要があるだろう。
自分のすべての時間を自分の内なる要求に合わせて使い、今日を二度とめぐってこない一日として計画する者は、明日を待ち望みもせず明日を恐れもしない。
今日を世界最後の日だと思って過ごせ。
誰だったか、こんな言葉を言った起業家がいたのを覚えている。
意味するところは同じだろう。今日が世界最後の日なら、あなたは今日しようと思っていることをするだろうか。
白髪をいただいてしわが寄ってくるという理由だけで、その人は長生きをしてきたと考えるのはいわれのないことである。それは長生きしたのではなく、長くこの世に存在してきたというのにすぎない。
存在しているだけの人間と、長く生きてきた人間。
その違いは第三者からも一目瞭然だが、どういう日々を積み重ねれば「生きた」と言えるのだろうか。
そこがわからなければ、ただ長く存在していただけの人間として終わってしまう。
他人の時間を欲しがる人や、時間を求められると寛大に与える人を見ると、私は不思議でならない。彼らの注意は時間を必要とする対象物に注がれていて、時間そのものにはまったくの無頓着である。他人に要求している時間も他人に与えようとしている時間も、どちらも無価値なものだと考えているらしい。世の中でいちばん貴重なものを、人々は粗末にしている。時間は無形で目に見えないから、人はその価値に気付かないのだ。
何かやりたいことや、行きたい場所がある時、人間はその「モノ」や「場所」に価値を見出すが、そこに消費される「時間」をコストとして考えない。対価としてかかるお金のみをコストとして計算する。
「時間」もコストにいれる。
これが大切なのかもしれない。
人々は年金や失業手当を大事だと思うから、それを得るためにあらかじめ労働やサービスや努力を出し合って蓄積する。しかし時間は無価値だと思っているから、気前よく消費してはばからない。ところが同じ人間が、病気になり死期が近づいたとなると医者にしがみついて延命を懇願する。また、死刑を宣告される恐れがあると生き延びるために全財産を惜しげもなく使おうとする。人の心はまことに気まぐれである。もし、未来の歳月をあらかじめ自分の前に並べて置くことができれるならば、人々はその残り少なさにあわてふためき、急に時間を惜しむようになるだろう。
老後のために今働いておこう。老後のために今貯蓄しておこう。
そう考えるのは至極当たり前のようになっている。
しかし、途中で病気にかかり命に関わると言われたらどうするだろうか。おそらく、全財産をはたいてでも治療してもらうだろう。
治ったとして、では、それまで貯めたお金、費やした時間はなんだったのだろう。
何気なく日々を過ごしていると、限りある命の存在を忘れてしまう。
人生はスタートした道を一途に進み、逆戻りすることも立ち止まることも許されない。時は物音ひとつ立てないから、人はその速さに気づかない。音もなく過ぎ去る。たとて王の命令であろうと、あるいは民衆が拍手で訴えようと、時はアンコールに応えてくれない。出発の日とまったく同じ調子で走り続ける。どこかで脇道にそれたり、道草をくったりすることもない。人が時間を無駄にしている間に、人生は急ぎ足で過ぎ去り、死が近づいてくる。
誰がなんといおうと、何をしようと、時の進むはやさは変わらない。常に一定。不変である。
しかし、それと同じくして誰にでも平等だ。誰しも1日24時間ある。それは共通の時間だ。
それなのに、同じ30歳でも、何かを成し遂げて成功している人と、何も成し遂げていない人がいるのはなぜだろう。過ごした時間は同じはずなのに、実績が違うのはなぜだろう。
それは一重に、時間の使い方である。時間だけは、誰しも平等に過ぎる。
先見性を自慢する人がいるが、この人たちの考え方ほどばかげたものはない、と私は思う。彼らの未来のよりよい生活を願って、忙しく働き続ける。将来の生活を準備するために生命を浪費する。彼らは遠い将来を見通して目標を立てる。しかし、目標を先延ばしにすることは人生最大の浪費である。「先延ばし」は、訪れてくる日々を彼らから奪い去り、現在をかすめ取る。
将来のために今を我慢する。
このことをセネカは口酸っぱく非難する。それは単なる時間の浪費に過ぎないと。
誰に教わったわけでもなく、将来のために今を犠牲にすることが良しとされている風潮に生きている。
それは人によっては、いや、人間からすればそれは時間の浪費にすぎないのかもしれない。
詩人は言う。「なぜ人はぐずぐずするのか?なぜ怠けるのか?その日は、その日のうちにつかまえなければ逃げ去ってしまうのに」と。
これは「明日やろうはバカ野郎」と同義だろう。
しかし、この一文は、より「時」を意識している。
時の流れのはやさ、そして時は有限であること。それをもう一度認識して生きねばならない。
老齢は、まだ子供っぽさの残っている心にも不意に襲いかかってくる。それと気づいたときには、老齢に対する準備も心構えもできていない。老齢が一日一日と近づいていることをわきまえていない者は、老齢の突然の来訪にあわてふためいてつまずき転げる。
心が仮に、いつまでも若々しくエネルギッシュであろうとも、重ねていく年齢だけはごまかせない。私たちの身体は常に衰えている。常に終わりえと近づいている。
それを自覚している者と、いない者では、晩年になり醜態をさらすか否かという差がでてくるだろう。
いろいろなテーマについて人が語るのをいくら聞いても、いくら本を読んでも、またいくら沈思黙考しても、旅人は旅を理解することができない。終点に近づいているな、と気づいたときには旅はもう終わっている。同じように、人生の旅は目覚めているときも寝ているときも、同じペースで休むことなくどんどん過ぎ去っていく。人生の渦中に巻き込まれている人間は終わりの時を迎えるまでこのことに気づかない。
学生時代を思ってみれば、この意味が良く分かる。
自分が卒業するのはまだまだ先だと思って学生時代を過ごしていたら、あっという間に月日が流れ卒業の日が来た。という経験は誰しもあるものと思う。
それと全く同じ事が、いまは人生というスケールで起こっている。
気が付いたら一瞬で時が流れていて、もう人生の卒業だった、という結果にだけはしたくない。
「我々は全力をあげて感情と戦わなくてはならない。策略を使ってもだめである。戦線を突破するには勇猛果敢な攻撃あるのみだ。針でチクチクつついてもダメである。感情に打ち勝つには、かみ切るのではなく押しつぶさなければならない。だから、詭弁は役に立たない。」
今まさに過ぎ去っている私たちの時間は、有効に、自分のためになることに使わなければならない。
しかし、そのために邪魔になるのが感情だ。楽をしたい、怠けたい、休みたい、、、そういった感情に勝てなければ、時間を浪費し続ける人生になるだろう。
感情に打ち勝つには、感情をおしつぶさねばならない、と。
もちろんそれは口でいうほど簡単ではない。いかにして感情をおしつぶすか。
人生は三期に分けることができる。過去、現在、未来である。現在の人生は短く、未来の人生は不確実であり、過去の人生は確定している。この過去の世界には、もう運命の女神の支配も及ばず、人間のいかなる権勢をもってしても過去を連れ戻すことはできない。
人生は三つのセクションに分けることができる。過去、現在、未来。
これに対しては誰も異論がない。しかし、考え方はだいぶ異なる。セネカは過去は確定したものであり誰にも変えることができないという。
しかし、西野亮廣氏は過去は変えられるという。
それぞれ自身の哲学でこの三つのセクションを捉える。セネカの考えに同調するのも良いし、自分の哲学で三つのセクションを捉えるのも、また良い事だろう。
現在という時間はたいへん短い、余りにも短いから、まったく時間がないのではないかと思う者がいるほどである。現在はいつも流動し、足早に過ぎていく。であるから、人生の渦中にいる者は現在にだけ心をひかれる。しかし、現在はあまりにも短いのでつかむことができない。それどころか、人々がいろいろなことに首を突っ込んでいる間に、現在という時は盗まれ、あるいは雲のように散りばり消えていく。
止まることのない時の流れをどう生きるか。
それには、時の流れにとらわれてはいけないらしい。
これまた難しいことを言われたものだ。これだけ「時」の流れの速さを意識させておいて、「時」にとらわれるな、と。
時間をはかる尺度も、時計ではなく人間個人だ。どのように時をとらえていくべきか、個人個人で決めて生きていくのが望ましいのだろう。
今ローマ人は、役にも立たないことを覚えるのに熱をあげている。つい先日、最初にこれをやったローマの将軍はだれ、あれをやった将軍はだれである、ということを教えている男の話を私はきいた。彼によると、最初に海戦で勝利をあげたのはデュイリウスで、最初に象を使って戦いに勝ったのはキュリアス・デンテイタスである、とのことであった。こんな知識を持っていてもなんの得にもならないのだが、くだらないことがけっこう魅力を持っていて人々の関心を集めるのである。
こういったいわゆる雑学というものは知っておくと「面白い話」ができる。それは人々から歓迎されることが多い。
セネカからすれば無駄な知識でしかないこの知識は、「時」の概念を持たない人々には受け入れられるようだ。
私個人の意見では、こうした知識はいわゆる歴史の知識なので、知っておいて損はないと思ってしまう。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」の通り、歴史を知ることは一定の意味がある。
セネカの上記の文は以下のように続く。
彼らが真面目に事実を伝えていることは認めるとしても、また、たとえ彼らが自分たちが書いたことは事実である、と誓約するとしても、彼らの話によって、誤った知識の数がどれだけ減らせるだろうか?彼らの伝える事実がどれだけの人の感情を抑制できるであろうか?だれをより勇敢にし、だれをより公正にし、だれの心をもっと高貴にすることができるであろうか?
たくさんの人がいる中で、考えるための時間を持っている者だけが解放された生活をしている。本当の生き方をしているのは彼らだけである。彼らは自分の生涯のよき管理人であることだけでは満足しない。一年一年を自分の年齢に付け加え、それと共に知識の貯えを増やしていく。
考えるための時間とは何か。
わたしたちはそこからはじめるべきだろう。セネカのように哲学を考えることなのだろうか。
人生について、どう生きればいいのかを求めている人にとっては哲学の時間を持つことは最も大切なことだろう。
人によって、なにについて考える時間を持つかは、変わってくると思う。しかし、仕事についてや、人間関係についてあれこれ考えるのは時間の浪費となるだろう。
この移ろいやすくて無意味な現在から目を転じて、過去の世界に身も心も委ねようではないか。過去は無限・永遠であり、すぐれた先人たちと共有することができるのだ。
この文章は、先人の知恵を活かす大切さを述べているところだろう。
現在は様々な要因で揺れ動く。昨日まで善だったものが明日には悪になっていることもある。
しかし、過去の先人たちの知恵、教えは確定した情報である。現在に揺れ動かされるくらいなら、過去から学んだ方がはるかに効率的なのは事実だ。
この世の仕事を遂行するために走り回り、自分はもちろん他人にも休む暇を与えない人がいる。彼らは狂人のように夢中で、毎日だれかの家を訪ね、戸口が開いている家は一軒残らず訪問し、さまざまな欲望が渦巻く大都会を出て、遠く離れた家々を訪ね、打算に裏付けされた挨拶を振りまく。ところが、彼らの目はどうかというと、なんにも見えていないのである。目を覚まし、自己陶酔や不作法から自分を解き放とうと努めている人がいったいどれだけいるだろうか。
何かに憑りつかれたように、一つのことに夢中になっている人は少なからず存在する。
それが芽が出れば、世間は評価する風潮がある。しかし、彼らはそんなものまったく気にしない。気にする余裕もないのかもしれない。
それ以外には目もくれない。
それしかみえなくなってしまっている。
賢人たちはあなたを死に追いやるようなことはしない。どのように死ねばいいかをあなたに教えてくれる。彼らはあなたの年齢をすり減らすようなことはしない。自分の年齢をあなたに増し加えてくれる。彼らとの対話はあなたに危害を加えることなく、彼らとの友情があなたを危険に陥れることはない。彼らから恩恵を受けたからといって、あなたの財布に課税されることもない。なんでも望むものを彼らからもらうことができる。たとえ、望みのたけを引き出せなくても、それはこの人たちのせいではない。
セネカという人物は、過去の哲学者の知恵にだいぶ影響・感銘をうけていたようだ。
賢人の考えというものは知って損ということは絶対にない。生きる上で役に立つことばかり言っている。
私は、セネカをその賢人の一人として、彼から言葉を受け取っている。
過去を振り返るとは、そういう意味なのだろう。
掟によってでっちあげた名誉や石に刻んだ記念碑はすぐに埋もれて廃墟となる。時の経過と共にあらゆるものは壊され姿を消していく。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、、、、、
どこの国の言い伝えにも、世の中は盛者必衰だという話はある。
世の中、まさにその通りである。
栄華を極めた人たち、その末裔たちは必ずどこかで倒される。
名誉や地位などの形あるものはいつか壊れる。しかし、心の中、思想は築き上げることはあっても壊されることはない。
人は身近なものは妬むが、遠く離れたものには寛大で、素直に敬服する。
知り合いが起業したり、芸人になろうとすると、バカにしたり無理だと笑ったりする人が多い。しかし実際に成功してその人たちの手の届かないところにいくと、急に態度を変えてすごいと褒めたたえる現象がある。
これは、まさにそのことを言っているのだと思う。
人間、妬みの対象になるものは、身近なものだと思い込んでいるものなのかもしれない。
過去を忘れ、現在をおろそかにし、未来を恐れる者の生涯は短く、悩みごとが多い。こういうだめな連中は、人生が終幕に近づいたときになってやっと、「ああ、おれはなんと長い間つまらないことをあくせくやってきたことか!」と気づくのである。
ときには一日が長く思えてしかたがないことがあり、また、夕食の時間がくるのが待ち遠しいとこぼすことがある。だからといって彼らの人生は長い、と考えるのは理にかなってない。彼らは熱中していたことがうまくいかないと、何もすることがなくなる。しかも、暇な時間をどう使えばよいかをわきまえていないから落ち着きを失う。そして他に何か打ち込めるものが見つかるまでは、退屈な日々をうんざりしながら過ごす。
時間の使い方、また、これまで何に時間をつかってきたかのツケが回ってくるのは人生の終幕の時である。なんと恐ろしいタイミングだろう。その時にはじめて結果発表がなされ、それはもはや覆しようがない。
後悔したところで、また、満足したところで、過去は一切変えることが出来ない。
今の時間の使い方がすべて自分の将来に関係を及ぼしていることを頭にいれておくことは大変重要だ。
剣闘士の模範試合の開始がアナウンスされたときや、その他のショーや娯楽の開演時間を待つときの合間がもどかしいのと同じで、彼らは間の日々が抜ければよいのにと願う。求めるものがなかなか得られないと時間が長く感じられるが、楽しんでいるときの時間は短くて速い。
しかも彼らは楽しみから楽しみへと転々と移って、ひとつのものにじっと止まっていられないから、楽しみの時間はますます短くなる。昼間が、長いどころかうとましいとさえ思う。ところが、いかがわしい女の腕に抱かれ、酒を飲んで過ごす夜はなんと短く思えるころであろうか。高い金を払って過ごす夜が、ひどく短く思えるのは当たり前のことである。彼らは夜を待ち望みながら昼を無駄遣いし、夜明けになるのを恐れながら夜を浪費しているのである。
時間の使い方、過ごし方、人間とはそれで決まる。
どんな才能があって、どんな努力をしてきたが、が重視されがちだが、正確には、何に時間を使ってきましたか。という質問が正しい。その答えが、その人という人物を的確に表すことになると思う。
努力=時間。
これは揺るぎない真実だ。
繁栄を維持するには別の繁栄が必要であり、かなえられた祈りのためにはさらに別の祈りをしなければならない。思いがけなく舞い込んでくるものはすべて不安定で、大きな幸福ほど崩れやすい。破滅を運命づけられているものは、だれにも喜びをもたらさない。一生懸命に働いて獲得したものを維持するために働く者の人生はますます短く、みじめである。
働いて獲得したものを維持するために働く。
そうする人の人生は短いものだとセネカは説く。
しかし周りを見渡せばそうしている人の方がはるかに多い。働いて獲得したものには、財産・地位・安定・家族などが含まれる。それらを働く以外のアプローチで維持していくには、どうするべきなのだろう。
人は苦労して望みを達成し、それを維持するために腐心する。ところが二度と戻らない時間のことには一向に関心を払わない。今まで熱中していたものに新しいものが取って替わり、希望は新しい希望を生み、野望は新しい野望につながる。
そうやって次々に何かに夢中になっているうちに、人生はどんどん過ぎて行く。私たちはいつもゆっくりした生活を楽しみたいと願っているのに、その願いはかなえられないのである。
獲得してきたものを維持するために時間を費やすことに何の疑問も抱かない人は多い。
しかし、それは自分の人生の時間を使っていることを頭にいれておくべきだ。それを知らずに費やしている人と、考えなしにその時間を使っている人とでは、最期に後悔する可能性がだいぶ違う。
何をするにしても時間をつかう。それは、自分だけの大切な人生の時間を使っている。
時間を奪われてゆとりのない生活をしている人はかわいそうであるが、とりわけ、自分のものではないもののために時間をとられて働いている人や、他人の睡眠時間に合わせて自分の眠りを調節している人、他人のペースに合わせて歩いている人、ことに、愛や憎しみのように世の中で一番自由であるべき事柄について他人の指図を受けている人などは、最もみじめである。
自分が何かに自分の時間を奪われているという感覚に陥ることができる人はまずいないだろう。
毎日の通勤、通学などは当たり前のこととして過ごしている。しかし、その日々の先に自分の未来はあるのか。
ないのなら、それは時間を奪われているいい例だろう。
この文の面白いところは、セネカが愛とともに憎しみを世の中で一番自由な事柄だといっていることだ。何を愛しても、そして何を憎んでも自由。
ならば、なぜ愛は良いもので、憎しみは悪いものとして認識されているのだろう。
これらの人々に人生がいかに短いかわからせてやるには、人生の中で自分自身のために使っている部分がいかに少ないかに気づかせてやることである。
残業を家にまで持ち込んで済ませるのは会社のためだ。文化祭の準備を毎日最後まで残ってやるのはクラスのためだ。記念日に渡すプレゼントを悩む時間は恋人のためだ。
それらは直接的に自分自身のためになる行為ではない。しかし、誰かのために時間を使い、喜んでいたりタメになったと感じることで満足感を得る人もいる。
もしあなたがそう感じない人ならば、そういった時間は自分にとって人生の無駄な時間になってしまうだろう。
正装の官服を着ている人や大広間でその名を知られている人を見てもうらやんではならない。官服や名声は人生を犠牲にして購入されるものだからである。ローマの執行官は一年を自分の名前を呼んでもらうために、全生涯を浪費している。
名声や地位を求める人生の人もいる。
私は名声も地位もないので、それがいいのか悪いのか、わからない。
しかし、その人はそういう夢があったのなら、夢を追いかけ続けるいい人生だったのでは、と私は思う。
その生涯が浪費だったとされるのは、名声や地位を得てから、自分の追い求めていたものが理想と違った場合だろう。夢を追いかけ続ける人は良い時間の使い方をしていると思うが、手に入れた瞬間、一気に時間の浪費だったと感じるリスクが内在している。
死ぬまで仕事を持っているということは、人間にとってそれほどうれしいことなのであろうか?なるほど、たいていの人同じような感情を持っていて、仕事をする能力がなくなってもなお働きたいと願い続け、肉体の衰えと戦っている。人々が、老齢を何よりも辛いと思うのは、老齢が人々から仕事を奪うからである。
とはいっても、現代で死ぬまで仕事をしていたいと願う人間はどれほどいるのだろう。
ほとんどいないだろう。
仕事から解放され、充実した老後を送ることが現代人の夢のような気がする。
ならば、現代の老齢の辛さとは何だろう。仕事が奪われることではない。
やりたいことをする活力がみるみる無くなっていくことではないだろうか。
法律によって仕事から解放されることはやさしいが、自分で自分を解放することは難しい。お互いに奪ったり奪われたり、相手の心を乱したり不快な思いをかけ合ったりしている人生には、得られるものや楽しみは何ひとつなく、心はまったく成長しない。
心の成長を重視している言葉だ。
成長には、さまざまな成長がある。そのなかでも心の成長となると、特に実感が難しい分野になる。
過去の自分を振り返り、「ああ、心が成長したな」と感じることはまずない。
しかし、おそらくセネカの哲学は、心の成長につががる行動が、最も適切な時間の使い方なのだろう。
人生が有限であることを心にとめている者は少なく、人々は見果てぬ夢に執着する。中には、死後のことまで手はずする人もいる。巨大な墓碑やこれみよがしの葬儀などだ。しかし、実のところ彼らにふさわしいのは、たいまつと小さな蝋燭の火に照らされて行われる葬式ではなかろうか。なぜなら、彼らの生涯は子どものように短かったではないか。
たいまつと小さな蝋燭の火に照らされた葬式とは、セネカの時代、子どもの葬式は夜間に行われたことから、子どもの葬式のことを指している。
見果てぬ夢を追い求め続けた者はの人生は、子どものように短い。
仏教の欲の概念と通ずるところがある気がする。仏教では欲をとり除くために修行をし、無欲の悟りを目指す。
無欲のなかに何を求めて人生を旅するか。あなたならどうするのだろう。
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