古代ローマの哲学者セネカの教えは、現代においても深い洞察と智慧を秘めています。彼の名言から学ぶ幸福の秘訣は、今日の生活にも大きな示唆を与えています。本記事では、セネカの哲学を通して幸福な人生の本質を探求し、彼の教えから得られる深い洞察を紹介します。
セネカの哲学とは?
セネカ(前4世紀)は古代ローマの哲学者であり、ストア派の一員として知られています。彼の哲学は、個人の幸福と精神的な安定を追求することに焦点を当てています。セネカの哲学は、以下のような原則に基づいています。
- 自己管理と節制: セネカは、情熱や欲望に支配されることなく、理性に従って行動することの重要性を強調しました。彼は、自己管理と節制が個人の幸福と内なる平和をもたらすと信じていました。
- 不可避な運命への受容: セネカは、人生には不可避の苦難や逆境があることを認識し、それらに受け入れることの重要性を説きました。彼は、運命に逆らうのではなく、それを受け入れることで心の平和を得ることができると考えていました。
- 内面の平和の追求: セネカは、物質的な豊かさや社会的な地位よりも、内面の平和と精神的な豊かさの追求を重視しました。彼は、真の幸福は内面から来るものであり、外部の状況や物質的なものに左右されるべきではないと信じていました。
幸福な人生の本質とは?
セネカの哲学における幸福な人生の本質は、以下のような要素によって定義されます。
- 内なる平和と満足: 幸福な人生は、内面の平和と満足によって特徴付けられます。セネカは、欲望や情熱にとらわれることなく、内なる平和を追求することが重要であると考えていました。
- 道徳的な生き方: 幸福な人生は、道徳的な生き方に基づいています。セネカは、正しい行動と倫理的な生き方が個人の幸福につながると信じていました。
- 自己受容と自己成長: 幸福な人生は、自己受容と自己成長によってもたらされます。セネカは、自己を理解し受け入れること、そして常に成長し向上することが重要であると考えました。
- 他者との絆: 幸福な人生は、他者との良好な関係や絆によってもたらされます。セネカは、他者とのつながりや助け合いが、個人の幸福に大きな影響を与えると考えていました。
セネカの名言: 幸福への道標
4つの幸福の定義
最高の幸福とは、場当たり的に行動することを恥とし、高潔を尊ぶ心を持つことである。
最高の幸福とは、経験による知恵を持ち、行いが物静かで、他人との交わりではいつも礼儀正しく、しかも気配りを怠らず、毅然とした心を持つことである。
この二つのことは、同義であるとセネカは言う。
現代の言葉で短くまとめるとするならば、「自分で考えて自分で生きろ」ということだろう。
言葉でいうには簡単だが、これを実践するとなるといきなり難しくなる。
日本人は義務教育の段階から自分で一人で生きていく感覚から遠ざけられている。常にだれかと共に生きていく、困ったら誰かが助けてくれる。なぜかそんなような雰囲気に包まれている。
慶応義塾大学を創設した福沢諭吉は人間に必要なのは「自立」にあると説き、慶応の校訓にした。
こういう考え方を幼いころから身に着けておくと、幸福な人生を送りやすい。すでに歳を重ねてきた人も、いまからこの考え方を肝に銘じれば、幸福な人生になるかもしれない。
幸福な人とは、名誉を大切にし徳を行うことを喜びとし、その場かぎりのことで得意がったりくじけたりしないで、自ら選んで自らのために行う善を最高とし、快楽を恥とする人、と定義することができる。
今どきこんな人がいたら周りから聖人と揶揄されるだろう。
しかし、こういう「人のためにすることが幸福だ」論では珍しく、セネカは自分のために行う善こそが最高だと言っている。
しかし、そのすぐ後で欲はダメだとも言っている。要は、勉強・スポーツ・芸術などは善であり、酒・女遊び・贅沢などは欲として分けろと言っている。
自分のための善になることにいくらでも時間を使っていいとセネカはいう。そもそも、自分のためにならない仕事は時間の無駄だと言い切っている。
自律性という視点からみれば、幸福な人とは、理性の資質によって恐怖心や欲望から解放されている人であるともいえる。
岩石は恐怖や悲しみから解放されているし、野原にすむ動物たちも同じかもしれない。しかし、岩石や動物たちには幸福という認識がないから、彼らは幸福であると言うことはできない。したがって、生まれつき愚かなために、あるいは自分をわきまえないために、野の動物たちや生命を持たない物と同じレベルに落ち込んでいる人々は幸福を味わうことはできない。
たとえ分別があっても、心がゆがんでいれば悪い方向に働くから、もの同然になり下がった人間と変わりはない。真理がわからなくなった人間に幸福感は与えられない。
以上4つがセネカのいう「幸福の定義」である。
最後の項の説明を以下に載せる。
幸福な人生とは、正しくて信頼に値する思慮分別の上に打ち立てられる不変のものをいうのである。心に曇りがなく、深い傷はもちろんかすり傷さえ心に負わせず、どんな悪にも心を染ませまいと決意し、また、どんな道を進むにせよ、目標をあくまで堅持しようという覚悟が決まっていれば怒りの神も避けて通るに違いない。
ところが、人の心の中には悦楽を求める気持ちがひそんでいるのである。心のおもむくままに任せてみるがよい。感覚を喜ばせるものを飽食し、消えようとする過去の悦楽を振り返って酔いしれ、次にくる快楽を待ち望む。善を求めず悪を選ぶ結果、心はすさんで、浅ましいものに成り下がっていくだろう。
分別に富んでいなければ幸福にはなれない。幸福な人は正しい判断力をもっている。たとえそれがどんなものであろうとも現在のめぐり合わせに満足し、自分の境遇に黙って従い、自分が置かれている状況を理性的に判断できる人こそ幸福なのである。
最後の項こそが、幸せとはなんなのかを教えてくれている。と、私は感じる。
現在のめぐりあわせに満足すれば、高望みをして絶望することはなくなる。
幸福とはとらえ方で形は簡単に変わるものだ。
その他大勢の道に生きがいはない
幸福に生きることはすべての人の願いではあるが、何が人生を幸福にしてくれるか、というはっきりした知識を持っている人は少ない。したがって人生を幸福に暮らすことは容易なことではない。もし道の選択を誤ると、幸福は得られない。まして反対方向の道を選んだりすると、幸福を求めて急げば急ぐほど、幸福から遠ざかることになる。
何が自分を幸福にしてくれるか。それを知っている人もいるし、まだ探している途中の人もいる。
もしまだ見つかっていない人は、いまやっている事はあなたを幸福にしてくれない事なのかもしれない。
誤った道の中で幸福を得ようと頑張っても、幸福から遠ざかっているだけかもしれない。
私たちは、私たちが求め続けている幸福な人生とはどんな人生なのかを明らかにし、その境地にいちばん早く到達できる道を探し出さなければならない。
もし、正しい道を選ぶことができれば、日々に歩んだ道のりがわかり、最終ゴールに向かって現在どの地点まで来ているかを知ることが出来る。しかし、指導者につかずに、とんでもない方角から私たちに呼びかけてくる雑音や不協和音に耳を傾けてさまよったりすれば、私たちは進路を踏みはずして人生を無駄遣いしてしまうことになる。
自分が幸福になれない道からの声をいちいち聞いていては、幸福の遠回りになってしまう。
しかし、全てを無視してしまっては、あなたが進むべき道との出会いを妨げてしまう。
その判断が全てである。
しかし、これが一番むずかしい。
どんな旅行に出かけても、よくわかっている道をたどるか土地の人に道を尋ねながら進めば、道に迷うことはない。ところが人生の旅路では、人々が頻繁に往来し踏み固めていった道ほど、私たちを迷路に引きずり込んでいくのである。だから、羊のように前を行く群れのあとを追ってはならない。他人のあとを追うのではなく、自分が行くべき道を自分で選んで歩まなければならない。
多くの人が歩んだ道ほど、私たちを迷わせる。
逆に、自分一人しか歩んでいない道ならば、迷うことはない。
自分の行いが、道になるのみである。
大群衆の中で互いに押し合ったなら、一人が倒れれば必ず他人を道連れにする。前を行く者が倒れれば、あとに続く者がつまずく。自分も前を行く群衆に盲従し、自分の判断よりは他人を頼りにするならば、人々が過去代々にわたって犯してきた過ちを繰り返すほかはない。
周りと同調すれば、自分のせいでない事で被害を被ることも多い。
成功、失敗に自分の影響はあまり左右されない環境だ。
それでいいと思う人もいれば、それでは嫌だと思う人もいる。
それで嫌と思っていながら、その環境に身をおいている人が一番幸福から遠い存在なのは明らかだ。
大衆は気まぐれで信用できない。例えば、選挙で政治家たちを選んだ人々が、あとになって、どうしてこんな連中が選ばれたんだろう、と他人ごとのようにいぶかっているではないか。ある事柄がある瞬間に人々の支持を得ていても、次の瞬間にはまったく見放されてしまうことが多い。こうした過ちを犯さないためには、自分と大衆との間に距離を置くことが必要である。
大衆ほど信用できないものはない。
ニュース・報道・デマなどで大衆心理はすぐに変わる。
自分の考えなんてものがあったとしても、大衆の風潮にあわせて自分の意見もころっと変える人もいる。
生きているようで、ただ存在しているだけの人々だ。
大衆の中の一人にならないように生活することが、幸福への第一歩だ。
人生の幸福について考える場合には、選挙のときのように、「こちらのほうが多数党になりそうだ」などということに気をつかう必要はない。どうするのがいちばん世間並なのかではなくて、何をするのが最善なのかを探り当てるべきである。何が烏合の衆にうけるのかではなくて、何が私たちの願望を永遠の幸福に結び付けてくれるのかについて考えることが大切である。
それぞれの人間の幸福は、それぞれの人間に考えさせるのがよい。
忙しい日々に追われていると、人生について考える大切な時間を削り、娯楽に時間を費やしてしまいがちだ。
幸福とは人それぞれであるから、それを自分と相談して決めなければならない。
人はなぜ、他人に見せびらかすための幸福に魅せられ、自分自身で深く味わうための幸福を求めようとしないのであろうか?一目をひくものや、人々が感嘆しながらお互いに見せ合っているものは、外面はピカピカ輝いてはいても、中身はまったく価値のないものばかりである。
派手なものや高価なもの、有名なものにはついつい気がとられてしまう。
しかし、そのもの自体の価値を考える機会はほとんどない。
外面で気をとられ内面を見落とすと、損をすることも多い。
内面の価値で判断することを忘れてはならない。
幸福な人生の3つの鍵
幸福な人生とは、自然と調和した人生であり、それに到達する道は次のようなものしかない。
第一に、健全な心をもっていつも平常心を保ち続けることである。
次に、どんな危急の事態にも忽然と立ち向かう気力と勇気を持ち、健康に不安のないように身体に気をつけることである。
最後に、人生を美しくしてくれるすべてのものに、度を越さない程度に関心を払い、そして運命に隷属するのではなく、それを正しく用いる者になることである。
これ以上言わなくても、わかっていただけることと思う。人を刺激し驚かすものをすべて取り除けば、平静と自由がいつまでも続くであろう。快楽や恐怖が消えてなくなれば、人の心を傷つけるもろもろにかわって、堅実不変の喜びがあふれ、調和した心と優しさに裏打ちされた気高い心が生まれてくる。
セネカは『幸福な人生について』で何度も言うことがある。
幸福とは、高望みしないこと、穏やかでいること、今に満足すること、平穏を求めること。
これらの要素は、人間には刺激が足りない。人間は刺激を求める生き物なので、幸福が足りないと感じるだろう。このサイクルこそが、人間が幸福を感じない原因かもしれない。
だからこそ、刺激のあるものを湯水のように浪費できるお金持ちへの憧れが芽生える。
しかし、それら刺激おるもの、刺激のある生活を求め始めたら、きりがない。永遠に刺激を追い続けることになる。それは、幸福への道から遠ざかっていることと知るのは後になってからだろう。
最後にもう少し、セネカの言葉を引用して載せておく。
うわべだけでない幸福、不変で中身が充実し、人目につかないところこそ美しい、そんなものを丹念に探し求めよう。それは、それほど遠い所にあるわけではない。手を伸ばせば届くところにきっと見つかるものである。ただ必要なことは、どちらに向かって手を差し出せばよいかを知っておくことである。私たちは、ちょうど手探りで暗闇の中を歩いているのと同じで、自分が探しているもの自体につまづきながら、それとは知らずにさ迷い続けているのである。
セネカの名言から学ぶ幸福の秘訣
古代ローマの哲学者セネカの教えには、幸福な人生を実現するための深い洞察が含まれています。彼の名言から学ぶ幸福の秘訣を以下に解説します。
1. 自己受容と感謝の心
セネカは、自己受容と感謝の心が幸福な人生の重要な要素であると考えました。彼は、自分自身や自らの置かれた状況を受け入れることの重要性を強調しました。人は自分を受け入れ、自分の可能性や限界を理解することで、内面からの平和と満足を得ることができます。また、常に周りの善や恵みに感謝する心を持つことで、幸福感が高まります。
2. 現在を大切にする
セネカは、「人生は短い」という考えを持っていました。彼は、過去の後悔や未来への不安に囚われるのではなく、現在を大切にすることの重要性を説きました。人は現在に集中し、現在の瞬間を充実させることで、真の幸福を見つけることができます。過去の過ちを乗り越え、未来への不安に振り回されるのではなく、現在を大切に生きることが幸福な人生の秘訣です。
3. 他者との絆を深める
セネカは、他者との絆を深めることが幸福な人生の重要な要素であると信じていました。人は孤独ではなく、他者とのつながりや関係を通じて意味や喜びを見出すことができます。セネカは、他者との親密な関係や助け合いが、個人の幸福感や充実した人生につながると述べています。他者との絆を大切にし、愛や友情を育むことで、幸福な人生を築くことができます。
以上の要素を取り入れることで、セネカの教えから得られる幸福の秘訣を実践し、充実した人生を送ることができるでしょう。
コメント