リーダーのための聖書(バイブル)、「言志四録」より格言を紹介します。
今回は言志四録の中の「言志後録」から抜粋します。
リーダーとしての考え方を学びたい方、人生の生き方を探したい方、偉人の言葉の力を借りたい方、
座右の銘が見つかれば幸いです。
実言は、芻蕘の陋と雖も蕘、以て物を動かすに足る。虚言は、能弁の士と雖も、人を感ずるに足らず。(第177条)
訳:
真実の言葉は、たとえ農夫や木こりの話でも、よく人を感動させる。だが、偽りの言葉は、どんな偉い人から出たものでも、何人をも感動させることはできない。
血気には老少有りて、志気には老少なし。老人の学を講ずるには、当に益志気を励して、少壮の人に譲る可からざるべし。少壮の人は春秋富む。仮令今日学ばずとも、猶お来日の償う可き有る容し。老人には則ち真に来日無し。尤も当に今日学ばずして来日有りと謂うこと勿るべし。易に曰える、「日罘くの離は、缶を鼓して歌わざるときは則ち大耋の嗟あり」とは、此れを謂うなり。偶感ずる所有り。書して以て自ら警む。
訳:
体力からほとばしる血気には青年と老年との違いはあるが、精神から発する志気には違いはない。だから老人が勉学に取り組むには、ますます志気を励まして、青年や壮年の人に負けてはならない。少壮の人たちの前途は春秋に富んでいる。たとえ今日学ばなくとも、取り返せるだけの歳月がある。だが、老人にはもう取り返すだけの明日はないのだ。
朱子もいっているように、今日学ばずして明日があるといってはいけない。易にも「人の一生は短いから、楽器でも鳴らして歌い楽しまなければ、いたずらに歳をとってしまうと嘆いているが、これは何の益もないことで、人生とはそんなものではない、その常を楽しむべきである」といっている。まことに示唆に富んだ言葉である。ふと、心に感じるところがあり、ここに書いて自分を戒めることとする。
名利は、固と悪しき物に非ず。但だ己私の累わす所と為す可からず。之を愛好すと雖も、亦自ら恰好の中を得る処有り。則ち天理の当然あり。凡そ人情は愛好す可き者何ぞ限らむ。而れども其の間にも亦小大有り。軽重有り。能く之れを権衝して、斯に其の中を得るは、則ち天理の在る所なり。人只だ己私の累を為すを怕るるのみ。名利豈に果して人を累せんや。(第122条)
訳:
名誉や利益はもともと悪いものではない。ただ、これを私物化してはならない。誰もが名利を愛し好むものだが、自分に適した中ぐらいのところを得るのがよい。それが道理であり、無理なく自然ということだ。
ところが、人が名利を愛することには程度というものがない。だが、それにも大小があり、軽重がある。だから、これらのバランスをとって中庸を得れば、それが道理となる。ある人は単純に名利は災いのもとと恐れているが、名利がどうして災いを及ぼすというのであろうか。
君子は自ら傔し、小人は自ら欺く。君子は自ら彊め、小人は自ら棄つ。上達と下達とは一つの自字に落在す。(第96条)
訳:
立派な人物は、何事においてもまだ努力が足りないと思うが、つまらない人物は自分の心を欺き、それで満足しきっている。立派な人はつねに努力を続けるが、つまらぬ人物はすぐにあきらめ、自分を捨ててしまう。賢者の道に進むか、堕落するかは、「傔」(不満足に思う)と「欺」(あざむく)、あるいは「彊」(つよめる)と「棄」のただ一字の違いである。
真の功名は、道徳便ち是れなり。真の利害は、義理便ち是れなり。(第24条)
訳:
本当の功績、名誉は道徳によって得られ、本当の損得は正義によるものである。
過は不敬に生ず。能く敬すれば則ち過自ら寡なし。儻し或は過たば則ち宜しく速に之を改むべし。速かに之を改むるも亦敬なり。顔子の過を弐びせざる、子路の過を聞くを喜ぶが如きは、敬に非ざる莫なり。(第17条)
訳:
すべての過失は慎みがないことから起こる。よく慎んでいれば過失は自然と減ってくるものだ。もし、過ちを犯したならば、速やかに改めるがよい。これも自分を慎むことである。孔子の高弟である顔淵が同じ過ちを犯さなかったのも、また子路が過ちを注意されるのを喜んだのも、いずれも自分を慎む心があったからである。
小吏あり。苟も能く心を職掌に尽くさば、長官たる者、宜しく勧奨して誘掖すべし。時に不当の見有りと雖も、而れども亦宜しく姑く之を容れて、徐徐に諭説すべし。決して之を抑遏す可からず。抑遏せば則ち意阻み気撓みて、後来遂に其の心を尽くさじ。(第13条)
訳:
部下が一生懸命仕事に務めていたら、上の者はよく励まし、誉めてやることだ。ときには妥当を欠く場合があっても、しばらくは様子をながめていて、機会をみて徐々に諭してやるがよい。決して頭ごなしに押さえつけてはならない。押さえつけると、意欲を失って、委縮し、それ以後は真心を尽くさなくなってしまう。
「寧ろ人の我れに負くとも、我れは人に負くなからん」とは、固に確言となす。余も亦謂う、「人の我れに負くとき、我れは当に吾れの負くを致す所以を思いて以て自ら反りみ、且つ以て切磋、砥礪の地と為すべし」と。我に於いて多少益有り。烏んぞ之を仇視すべけんや。(第11条)
訳:
「たとえ人が自分に背くことがあっても、自分は人に背くようなことはしない」というのは、誠に立派なことである。自分もまた、「人が自分に背くときは、自分が背かれねばならない理由をよく考えて反省し、そのことを自分の学徳を磨く土台になすべきである」と思う。こうすれば、自分にとって大きな利益となる。どうしてそれを裏切りと見なすことができようか。
春風を以て人に接し、秋霜を以て自ら粛む。(第33条)
訳:
春風の暖かさをもって人に接し、秋霜の厳しさをもってみずからを慎む。
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