他人を評価・批評するのが大好きなくせに自分を知らない日本人

今の世は誰も彼もが評論家気どりのような態度で生きている。

それほど他人の行動に気をとられているともとれる。批評の対象は身内から著名人まで多岐にわたる。しかし、面白いことにその対象に自分自身は入っていないことが多い。

他人を批評するが自分を批評しないという気持ち悪さを誰も気にしないのはなぜだろう。

 

なぜ人は他の人をなにかと批評したがるのだろうか。世間話なども大半は第三者の人の話で盛り上がるのが相場である。人を評価するのは、あたかも自分が優れた存在だと錯覚できる一種の麻薬のようなものだと私は思う。評価できるというのは、その人よりも上に立つ精神状況を作り出す。この快感が人間を惹きつけているのだろう。

実際、仕事においても新人時代から何十年か経ち、それなりのポストについてくると部下を評価する立場になり、あたかも自分が優れた存在だと思い込んでいる人がたくさんいる。実力はさして変わっていないが、人を評価できるという立場が価値観を大きく変化させている。

しかし世の中は面白いことに、自分が批評していると思っている人たちから、自分自身も裏で批評されているのが現実だ。

いい加減、それに費やした時間に何の生産性もないことに気付くべきではないか。その時間は飲み屋で不満を吐き出してすっきるするのと何ら変わりない行動だ。

 

 

賢そうな人も、他人の身の上ばかりを推測して、自分のことを知らないものである。自分を知らないで、自分以外のものを知るという道理はあるはずがない。だから、自分自身を知っているのを、もののわかった人というべきである。自分の顔つきが醜くても知らず、心の愚かなことも知らず、芸のまずいことも知らず、ものの数でもないことも知らず、年老いたのも知らず、病が冒すことも知らず、死の近いことも知らず、修行の道の未熟なことも知らない。わが身の上の欠点を知らないから、まして自分に対する世間の悪評も知らない。もっとも、顔つきは鏡に見え、年は数えればわかる。自分のことを知らないのではないけれども、なすべき方法を知らないから、知らないのと同じであるといったところだろうか。(徒然草第一三四段)

 

 

他人を批評している人はおおかた自分の能力や才能、ましてや自分自身が何たるかを知らないで生きている。自分がどういう人間かを知っていれば、おのずと他人を批評するなどというおこがましいことはしないからだ。自分を知れば知るほど、自分の未熟な部分が見えてくる。それと向き合い、成長していくことこそ人生で成すべきことではないのか。

自分のことを知らない人は自分のことを心のどこかで成熟した、もしくは何かしらの才能をもった素晴らしい人物だと考えている節があるように思える。これは自分自身を知らないからこそたどり着く、まさに愚の骨頂ともいえる。それでいて他人の世間話であの人はあれがダメでこれがダメでと言っているのだ、これほど面白いことはないだろう。

 

 

 

さらに面白いことは、この現代の真理を説いた徒然草が鎌倉時代に書かれたということだ。

鎌倉時代から人間の本質は何も変わっていない。他人にばかり目がいって自分自身をみつめることを忘れている。これでは誰の人生なのかいよいよ分からなくなってくる。

ましてや著名人の批評をしている人は何がしたいんだとはなはだ疑問である。彼らは自分を見つめ、自分の才能と未熟な部分に気付き、それを開花させたからこそ、それぞれの業界の著名人となり得たのだ。批評するどころか、参考にするべき対象である。

 

 

こういった一方的でおしつけがましい口調の主張には、それこそ批評して反論したくなると思う。じゃあお前はどうなんだ、となる。

私ももちろん成熟した聖人でも才能のある芸能人でもない、しかし、自分自身がどういうものかを見つめ身の丈にあった言動と行動を意識している。誰かといる時に第三者の話になったときは、自分が他人を評価できるほど優れた人間でないことを自覚し、悪く言うことはしない。それでいて、他人を悪く言う友人を諭したりもしない。そういった場面で水をさされるのを、我々は一番嫌うことも知っているからだ。

私の願いは、上に綴った思想を持つ人が世の中に広く行きわたってくれることだ。この記事を読んだあなたに、評論家気どりの生き方をか考え直すきっかけを与えられたら、私はうれしく思う。

 

 

おもしろき

ことなき世を

おもしろく

すみなしものは

心なりけり      高杉晋作

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