「相手の立場になって考えよう」ができない私たち

「相手の立場になって考えよう」は小学校で習う道徳である。

世の中を生きていくとき、この考えの人間に出会うことが極稀にあるが、そのたびに感心させられる。なんてよくできた人間なのだろうと。

今生きている人間の9割9分は自分の立場からしか考えていない。

今回はこの「相手の立場になって考える」を考えたい。

 

 

 

 

 

上位の者は下位の者の立場にたち、知恵あるものは愚かな者の側に立ち、裕福な者は貧しい者の心になり、才能ある者は才能なき者の身になるべきである。(徒然草第九十八段)

 

 

 

現代では知らない人はいないにも関わらず、まったく浸透していない考え方である。よりよい世の中にするためには、一人ひとりがこの考え方をもち、実践することが求められる。

しかし、それは限られた人にしかできていないようだ。

上にとりあげた徒然草の一節がそれを物語っている。

読んでみると、「相手の側になって考える」側の人間とはつまり「上位の者・知恵のある者・裕福な者・才能ある者」となる。

要は、社会的強者のみに与えられた選択肢が、「相手の側になって考える」ことなのだ。

 

 

 

 

 

世の中は大半が社会的弱者で構成されている。

「相手の側」に立たれる側だ。

これはこれで理にかなったものではある。なぜなら、「下位の者・知恵なき者・貧乏な者・才能なき者」は社会的強者の気持ちは分からないからだ。相手の立場にたとうと思っても、経験してない気持ちはわからない。

相手の立場になって考える側は必然的に優れた者ということになる。

世の中の大半を占める社会的弱者が「相手の気持ちがわからない」のなら、「相手の立場になって考えよう」の思想をもって生きている人が少なくなるのは当然なのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

人は権力をもつと傲慢になる。

何もなかった人がひとたび権力や金、地位といったものを得ると自己陶酔する。

これは人間の性である。

今まで仲の良かった人たちを見下したり関係を絶ったりする。

「相手の側に立って考える」側の心情はこんなものだ。

これでは世の中は一向によくならない。

 

 

 

 

 

 

では、相手の立場になって考えることは、人類にとって最大の難問であるのだろうか。

私はそうではないと考える。

相手の立場というものは正直な話、どうがんばっても到底理解できないものである。

なので難しく考えようとはせず、ただ単純に自分がされて嫌なことをしなければよい。

この考えも小学校の時に習う初歩的な道徳だ。しかし、この考えは誰にでも理解できる。自分の立場のみでこの「されて嫌だな」という行為を経験しているのだから。

生きている人間全員が「されて嫌なことはしない」思想で生きていたら、よりよい世界は虚言ではなくなる。

 

 

 

 

 

 

しかし、人間にとってはそんな単純なことさえもできないらしい。

理論上はみな経験している「されて嫌なこと」をしないという事は簡単にできてしまうが、現実問題はそうではないようだ。

自分の利益のために人を不幸にさせるし、自分の出世のために人の不正をでっちあげたり噂を流したりする。

「されて嫌な事」と「自分の利益」を天秤にかけると、必ず自分の利益をとるのが人間だ。

たいへん愚かで、醜い生物である。

だからこそ、ごく稀に出会う「相手の立場に立って考えれる人」には大変関心させられるのだ。私利私欲のことしか考えていない人間の世界で、私利私欲を殺してされて嫌なことをしない選択肢を選んでいる人間がいる。

あなたの周りにも、いや、あなた自信も、私利私欲の方を優先する人間ではないだろうか。

もし、あなた自信がこの私利私欲にまみれた世界を醜いと思うのなら、私利私欲を殺して行動できるようになるべきだ。

そうできる人が一人増えるだけで世の中はいい方向へどんどん進んでいく。稀に出会う賢者に、私という一人の人間は心動かされているのだから。

 

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