これまでの人生を振り返ってみると、実に様々な人と会ってきているなと実感する。何回もあっている親しい人もいれば、一回しかあったことがないが楽しく語りあったという人もいる。お世話になった恩人もいれば、嫌な思いをさせられた人もいる。
記憶ではとっくに忘れてしまっている人がいるくらい、これまで数えきれないくらいの人と関わって生きてきた。
これからお話しする死生観は当たり前のことだが、当たり前だと思っていないことである。仏教のブッダの教えである。
世の中、すべてのものが関係しあって存在している。あなたは、あなたの親がいなければ存在していないし、もちろん祖父母がいなければ親ともども存在していない、もっといえば先祖の誰かが欠けていたとしても存在していない。
そして、今のあなたは友人・恋人・先生・上司・先輩・後輩といった人たちから多大な影響を受け、そして与えている。そしてテレビやインターネット、本や勉強などから様々な興味・知識を得ている。何気ない日の何気ない発見や情報も、今のあなたを形つくっている要素のひとつだ。
あの日あのテレビを見ていなかったら、あの時あの部活に入っていなかったら、あの人と出会っていなかったら、遊びに行っていなかったら、あなたは今違う場所でちがう事をしていることになっていた。少なくとも、今この記事を見ていることはなかった。
そして、あなたと関わった人たちもまた、あなたと出会っていなければ今の彼らは存在していないことになる。
すべては関係しあって始めて存在する。これを「縁起」という。これまでの関わりがあって初めて自分は存在するという考え方だ。これは逆に、それらの関わりがなければ自分は存在していない、これを「空」といい、我々は存在しているようで実は存在していないという考え方である。
これらを掘り下げると難しすぎて眠くるので超簡単に説明すると、人間はこれまでの関わり、現在の関わりによって存在できているよ。逆を言えばぼくたちは実体なんてもってないよ、存在させてもらっているだけだよ。というものである。
ちなみに難しすぎるがゆえに、仏教ではこの「縁起」と「空」を悟った人間が仏と呼ばれる。それほど難しい概念を私が説明するのも大変恐縮だが、分かりやすく超簡単にアレンジさせてもらったことを補足しておく。
私たちが目覚めるべきは、自分ひとりで生きているという錯覚である。ひとりで生きているようで、様々なものの「縁」あって生きている。その「縁」なくして自分は存在しないと謙虚な考えに気付くことは非常に大切だ。
こう考えると、自分の存在意義を見失ってしまう人もいる。自分というものは存在させてもらっているだけで無力な存在である、と考えてしまう。そのため、こうした真理に近づいた人で自殺に及ぶ人の数は多い。自殺まではいかなくとも鬱や無気力になる例が多い。実に、哲学を学ぶ学部の生徒は大学中退率が高いらしい。これは大学に行きたくなくなったのではなく、哲学を勉強し、自分の無価値さ、無意味さに鬱気味になってしまうからと聞いたことがある。
しかし、ブッダは自殺してはいけないと説く。あなたが自殺することも、必ず誰かに関係性をあたえる。あなたが死ぬことで他の誰かを違った存在にさせる可能性が高いのだ。先にも述べた通り人間のは「空」であり実体はないため「縁起」によって存在が決まってしまうからだ。お互いが関係しあって存在している上では、現実を生きることが一番大切だという。
そのため、仏教では死後の世界などを肯定していない。なぜなら、「縁起」と「空」を知った者はあの世で幸せな世界を生きるという思想は持たないからだ。浄土真宗などの極楽浄土を謳ったものは仏教の宗派であるが、考え方はブッダの説いたものとは違ったものになってしまっている。
私たちは「空」であるがゆえ、「縁起」を大切に今を生きることこそ大切である。悪い縁ではなく、良い縁をもたらす人間になりたいものである。
*解釈にはそれぞれ批判があると思うが大衆にわかりやすく個人的にアレンジしたものを記事としてのせる。業界人の方はこれを読んで批判をもつことがあると思う。ここに深くお詫び申し上げる。
コメント