人間の欲はとどまるところがない。
常に何か邪念に憑りつかれている。
お金を稼ぐのも、休みが欲しいのも、どこかへ行きたいのも、何かを買いたいのも、すべて欲でしかない。
現代ではこれらと仕事を両立させることがライフ・ワークバランスだという。
果たしてそうか?疑問である。
それらのために働いて、老いていってあなたは本当にいいのだろうか。
虚空にはなんでも入る。われわれの心にさまざまな邪念が勝手気ままにやってきては浮かぶのも、信念という主人がいないせいであろうか。心にもし主人がいたなら、胸のうちに、数々の妄念が入ってくることはないだろうに。(徒然草第二三五段)
現代人は信念というものを持っている人が少ないように思える。
胸の中に秘めたメラメラと燃えるものがあることは、人間として必要なものだと思う。
現代の評価は私の考えとは真逆なようだ。
信念や志をもっている人は「すごいね」「かっこいいね」「応援してるよ」と言われる世の中のようだ。なんと情けない事か。人間一人に一つの信念は持っておくべきものだ。そうした言葉をかける人は自分の人生をどうしたいかを考えていないのか?
人間が欲にかられる生き物だということは皆熟知しているだろう。私の行動は終局、欲望によって決まっているようなものだ。特に食欲・睡眠欲・性欲の三大欲求と呼ばれるものにはめっぽう弱い。
それらに行動を決められるのは致し方ない事だろう。しかし、そのほかの欲望にまけて人生をおくるのはいかがなものだろうか。引用した徒然草の箇所は非常に大切なことを教えてくれる。
信念という主人がいないから欲望に負けるのだと。
いまどき、こんなことを言うと「なにをしたっていいじゃないか」「ひとそれぞれの生き方があるじゃない」と、まさに現代教育の賜物のような反論があるだろう。
たしかに人それぞれ生きていけば全く問題はないのだが、欲にまみれた人生を送る人がこれ以上増えたら人類史上一番醜い世の中になってしまいそうで、言っておきたい。
横並び平等教育と個性重視教育の相反する性質をもったハイブリッド型が現代の教育である。みな平等といいつつ個性を大切にしようね、と。個性を重視すれば横並びの教育などできないにも関わらず。
要は、「世の中は色々な考えの人がいるよね、でもみんな平等なんだよ。」というようなことを押し付けられている。この教育の賜物が、上に挙げた「ひとそれぞれの生き方があるじゃないか」という考えになる。
たしかに何も間違ってはいないのだが、勘違いをしているようだ。
人それぞれ自由に生きてもよいとすることは、どこまで堕落し、廃人のような人生を送ってもこちらは知ったこっちゃないと国に言われているのと同義だ。欲にかまけて生きようと思えばいくらでもできる。しかしどんどん見放されていくことは目に見えている。
それともう一つ、「信念や目標がある人ってかっこいい」という風潮についてだ。
単刀直入に言うと、現代ほど信念をもった人がいない世の中はまずなかった。我々の歴史は日本史・世界史どちらに関しても大変な動乱があった。しかし、そこに生きた人たちはみな信念をもっていた。
中には死と隣り合わせの時代もあった。(現代でもそういう地域の人はいる)そういった人々は信念をもって生きることが自然と身についている。命の尊さを知っているから。
現代日本は本当に平和な国になったと思う。世界的に見ても、歴史的観点から言えば平和になったと言っていいのかもしれない(もちろん完全に平和だとは言わない)。
こういった世界では、人間は信念を持たなくなるのはなぜだろう。
たしかに、横並び平等教育と個性重視教育を受けていれば信念など持つなどめんどくさいと思えてしまうが、人生を無駄にしている感が否めない。
よく聞く言葉が「夢なんてない」「何をしたらいいのか分からない」「好きな事がわからない」といったようなものだ。これはひとえに知識不足・経験不足の問題だと思う。
知識と経験があれば何かしら興味をもつものの一つや二つはでてくる。しかし欲にかまけていても生きていける世の中だから、知識経験を積む必要がなくなってきている。これが現代人特有の「やりたいことがわからない病」の正体だと思う。
簡単な話で、本を読めば知識がつく。知識がつくだけでも考え方はいくらでも広がる。欲に時間を浪費していないで、知識をつけることをお勧めする。さすれば、信念をもった人生へと変わるに違いない。
信念がなければ欲がいくらでも心に入ってくる。それに時間を浪費する人生はなんと情けないものか。
あなたは今も着々と老いていっている。死へと近づいている。
信念をもち、欲を制御し、自分の人生に飛び乗ろう。
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