あなたには友達がいるだろうか。
おそらく多かれ少なかれいるだろう。
ならば、心の許せる友はどれくらいだろう。
その数は一気に減るか、もしくはゼロになる人もいるだろう。
今回は心の許せる友と、友達について考えてみたい。
同じ心をもっているような人としんみり物語して、おもしろいことでも、つまらない世間話でも、心の隔てなく言い慰め合えるとしたら、それこそうれしいに違いないのだが、そんな人はいるはずもないから、ちょっとでも相手の気持ちに逆らわないようにと思いながら向かい合って座っているとしたら、ひとりでいる気がするではないか。(徒然草第十二段)
同じ心をもっている人と話をするのは、それがおもしろい話でもつまらない話でも幸せな気持ちになれる。が、そんな人は存在しない。だからこそ相手の話に反論しないようにするが、そうしていると一人でいるような気持ちになるだろう。
といった趣旨の一節だ。
同じ心をもっている人とは、今にいう親友に違いないだろう。
親友よ呼べる人と話すのは、内容がどうであれ楽しいものだ。しかし、親友はそうそうできるものではない。親友だからこそ、そのハードルは高い。
兼好法師は親友なんてものは存在しないのだから、あまり友を増やさない方が良いと言いたいのかもしれない。親友ではない人の話には逆らわないようにしようと思ってしまい、逆に孤独を味わうことになる、と。
そもそも、相手を傷つけないようになどと思っていては本当の友情は生まれないのかもしれない。
ここらへんは哲学の話になってしまいそうだが、本音で話し合えるから親友になるのか、親友だから本音で話し合えるのか、どっちなのだろう。私は個人的に後者だと思う。初めてあった人と気が合ってその日は本音で話し合える事はたまにあるが、後日会ってみると何か違和感を覚えてしまう経験があるからだ。
双方が互いにいいたいと思っている程度のことは、「なるほど」と聞いているのも価値があるけれど、少しは食い違うところもあるような人のほうが、「自分はそうは思わない」などと本気で論争し、「そういう理屈でいくと、そういう結論になるのだ」などと語り合えるなら、所在ない心の寂しさも慰むだろうと思うけれど、実際のところ、少し感じている不満といった方面の話でも、自分と同等の価値基準をもっていない相手では、通りいっぺんのつまらないことをいう程度ならよいだろうが、真の心の友というには、はるかに隔たったところがきっとあるだろうと思うと、やりきれない気持ちである。(同段)
心から話し合える親友というものとは簡単には出会えない。
友人の多くは心から話し合って本気の論争などはできない。同じ価値基準でない、親友と呼ぶには隔たりがあるという事実に気が付いてしまうと一気にやるせない気持ちになったるするものである。
私には幸運なことに親友と呼べる友がいる。そして、友人という関係の人たちもいる。彼らの間の距離は果てしなく広いものである。友人が親友と呼べる位置にくるには、宇宙何千年という旅をしなければ辿り着かないほどの距離だ。
私は、それを認識して友人と関わることを煩わしく思えてきてしまった。私から彼らを誘う事はめっきりなくなった。しかし、誘われたら行く。そういう関係だ。これがちょうど良いとわかった。
もしくは、友人と心から話し合うことはできないと悲観的な考えを忘れ去るか、どちらかの選択肢をとることになるだろう。
ただひとり灯の下で書物をひろげて、見も知らぬ昔の人を友とするのは、この上もなく心慰むことである。(第十三段)
書物や、それに関する昔の人を友とするのは寂しい奴だなと思うかもしれない。
しかし、心を許すことができない友との時間よりも、書物や昔の人を友としたほうが心が安らぐのは事実である。それに、そこから学ぶことは大変多い。おそらく、友人の知識よりは深いことを学べるだろう。
ここまでいくのは、いきすぎかと思うだろう。しかし、この境地も正しい選択なのかもしれない。
親友と時間を過ごせたら、もちろんそれ以上幸せな事はない。
しかしそれは極めて奇跡的なことである。
下手に友人と話し合いをするよりも、書物を手にするほうが人間落ち着くものなのかもしれない。
友というものは自分の人生に多分に影響を及ぼす。
誰と友になるかで、あなたそのものが変わる。
経営者の友人ばかりなら、あなたは経営者を志すだろう。フリーターばかりが友なら、あなたも定職に就かず、何か夢を追うだろう。周りがタバコを吸っていたから、自分も吸い始めたというエピソードのような事が、ほんとうに起こるものである。
今一度、友との関わり方を見直すべきかもしれない。友によっては価値観を醸成するすばらしい時間を送れるだろうし、一方で友によっては無価値で孤独を味わう時間になる危険がある。
友は自分の人生を左右する。
コメント