感情は時に思ってもない決断をもたらすことがある。
特に深く落ち込んでいる時、怒りが爆発している時、ひどく号泣している時などは要注意である。
感情というものをコントロールすることは人間むずかしい。
ではどうしたらよいのか。
徒然草の一節から考えてみたい。
不幸にあって深い悲しみに沈んでいる人が、軽率に剃髪して出家を思い込んだりするのではなくて、いるのかいないのかわからないくらいに門を閉じてこもって、なにを期待することもなく日を送っている、そんなふうでありたいものだ (第五段)
深く落ち込んだ時に、俗世(世の中)に望みを捨て出家しようと思い立つのではなく、一人でひっそりと特に何に対しても期待することなく一日一日を生きていく。
そういった人生が素晴らしい。
そういった意味の一節である。
悲観的な考えだと思われがちだが、決してそうではない。
俗世とは欲にまみれているものである。分かりやすくいえば、世の中は企業に代表されるように自らの利益を最優先する人であふれている。多くの人間がその企業の元で働き、仕事以外の時間は自らの欲求を満たすために使う。
その世の中にひどく疲れても出家しようと決断するのではなく、世の中はしょせん欲望で満ち溢れているに過ぎない、何も期待せず、誰もきにせずやっていこう。
といったどちらかといえば前向きな一節のように思える。
ちなみに、この俗世の考え方は仏教からきているものである。
この俗世の煩悩(欲求)から解き放たれようとブッダが初めてのが修行である。そして悟りを開くことに成功するとお釈迦様になれる。
紀元前にブッダは煩悩にまみれた俗世に愛想をつかし悟りの道を選んだが、何千年もたった今でも世の中に満ち溢れているものは何も変わっていないようだ。
出家や修行の道を選ぶのは現在では現実的ではない。
世の中はそんな場所だ。何も期待せず欲も持たず静かに生きていくことが現代の賢者の生き方なのかもしれない。
世の中に期待せず、悲観もせず。そのどちらの考えも持ちながら偏らず穏やかに生きる。
感情的になるというのは、どこかで世の中に期待している部分がある。
期待するからこそ、感情は揺れ動く。
感情あってこその人間というが、感情は人間を間違った選択へといざなう。
人間は不完全な生き物であるが、それは感情のせいなのかもしれない。
世の中への期待を捨て、感情を表へ出さず穏やかに生きてみるのも面白そうだ。
それが、自分らしさとの本当の出会いとなるのかもしれない。
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