自分の一生を考えてみると、人生とは途方もなく長いものだと思える。
それは何十年後や何年後という単位で物事を考えているからだろう。
一生は、はかないものだということを今一度思い出すことは毎日を充実したものにできる簡単な方法である。
今回は一生のはかなさを教えてくれる徒然草の一節を紹介しよう。
わずかの時間を惜しむ人はいない。これは、惜しむ必要がないとわかっているからか、それとも愚かなのか。愚かであって怠ける人のためにいうなら、一銭はわずかな額とはいえ、これを積み重ねると、貧しい人を裕福な人にする。だから、商人が一銭を惜しむ心は、切実である。一瞬は自覚されないとはいっても、これをやむときなく経過し続けると、命を終える最期の時はたちまちにやってくる。
だから、道に志のある人は、遠い将来までの月日を惜しんではならない。ただ目前の一瞬が、むだにすぎることを惜しむべきである。 (第百八段)
一生は一瞬の積み重ねである。
だから「今」を大切にしょう。
ありふれており、聞きなれた言葉にみえて、世の中の真理をいっている言葉であると思う。
何年後、何十年後の未来の自分の姿を思い描く時間ももちろん大切であり、その時間があってこそ努力するべきことが見えてくる。しかし、それよりももっと大切なのが努力を続ける「今」である。
将来なんてものはしょせん「今」の積み重ねでしかない。
「今」を一番大切に生きることが、将来のあなた像に近づく唯一の手段である。
小学生のころに夢の中学生に憧れていた。
中学生のころに楽しい高校生活に憧れていた。
高校生のころに自由な大学生に憧れていた。
大学生のころにお金を持っている社会人に憧れていた。
こどものころは大人がかっこよくみえて憧れていた。
親や兄弟の大人な姿に憧れていた。
こんな子ども時代、学生時代をおくった人が多いだろう。
私も例に漏れず、こういう憧れや理想は胸に描いていた。
しかし、いざ憧れの年齢になってみると、理想と現実のギャップに驚いた。
自分はまだまだ子ども気分で、大人だなんて恥ずかしくて言えない。
しかし、私はれっきとした大人といえる年齢になっていた。
将来は「今」の積み重ねに過ぎない。
この少年時代に聞きなれていたが理解できなかった言葉の意味が、今は痛いほどわかる。
「今」をがむしゃらに努力した人だけが理想の将来の自分に近づけるのだ。
人生も、しょせんは「今」の積み重ねでしかない。
遠い未来のように思える老後というものも、子どもから大人になった感覚と同じように、気づいたらその時期がきているように思えてならない。
だから、「今」努力するしかない。
同じく徒然草の以下の一節もまた、人生の短さを思い知らされる。
一日のうちに、飲食すること・排便すること・睡眠をとること・話すこと・歩くことなど、やむえないことで、多くの時間を失っている。その余りの時間の暇な時間はどれほどもない。そのなかで、役にも立たないことをし、役にも立たないことをいい、役にも立たないことを考えて時間を過ごすだけでなく、一日を消費し、それがひと月にわたり、一生をうかうかと送るのは、最も愚かである。 (第百八段)
一日の中で自分のために使える時間というものは驚くほど短い。
食事、通勤通学、仕事や学校、帰宅、食事、入浴、睡眠。
これらに時間を割いた残りの時間が、やっと自分の時間である。この時間は誰しもが短い。
そのなかで、「今」を努力する人としない人がでてくる。
そして、しない人の多くは一生がはかなく短いものだと理解していない場合が多い。でなければ、この貴重な時間を役にも立たないことで浪費するという愚かな事はしないはずだからだ。
書いてあるように、一生をうかうかと送るのは、最も愚かである。
今の世の中は誰しも就きたい職業に就ける。
なりたい自分になれる。
はっきり言うと、こんな恵まれた世界は地球史上初である。(古代核戦争説はとらない)
この恵まれた時代に生まれた以上、なりたい自分になれる以上、とるべき選択肢は一つしかない。
一日、いや一生の短さを考えれば、愚かな時間の浪費は、もうしないだろう。
自分のために使える時間はほんのわずかだ。だからこそ、役に立つ時間の使い方にシフトチェンジしよう。
私は予定と時間に追われている時、たびたびこの一節を思い出す。
人生は「今」の積み重ねである、と。
コメント