グローバル化が叫ばれて久しいこのご時世であるが、それが何か知っている人があまりにも少ないのが現状である。中身のないグローバル戦略話はもう十分である。
宗教がわかると世界がみえてくる。学生・社会人どちらにも必要な知識は宗教である。仮にも世界展開している企業を目指す、または所属しているのなら、知っておくべきだ。
今回はイスラム教についておおまかに解説したい。
イスラム教について解説する前に、姉妹関係であるユダヤ教・キリスト教について知っていた方が話がだいぶわかりやすくなるので先に目を通すことをお勧めしたい。めんどくさければこちらからでも構わない。
まずイスラム教の大前提は一神教ということである。ユダヤ教・キリスト教と同じく、神を一つしかみとめていない。イスラム教の神はアッラーである。
多神教の人が多い日本人にはなじみのない感覚だが、この世で神はアッラーしか認めていないのがイスラム教徒である。彼らの前で日本でよくある学問の神、縁起の神、恋愛の神だとか言ったら露骨に嫌な顔をされることになるので注意しよう。ビジネスパートナー、もしくはお客様がイスラム教徒だった場合にこういった言葉一つで大問題になるので覚えておいてもらいたい。
イスラム教の唯一神はアッラーと記述したが、これはユダヤ教のエホバと「ほぼ」同義である。「ほぼ」としたのは、ユダヤ教徒、イスラム教徒からみればもちろん別の神との主張をうけてこうしたが、どちらも天地創造の唯一の神としている点で同義とした。
はじめはイスラム教の成り立ちからみていきたいと思う。
イスラム教はムハンマドの登場によって誕生する。イスラム教の聖典は『コーラン』である。これはアッラーからきいた言葉をムハンマドがまとめたものであるが、これはムハンマドの教えではなく、あくまでも神の言葉だと考えられている。
ここは重要なポイントで、アッラーとムハンマドはまったく違う人物となる。
アッラーはイスラム教が信ずる唯一の神であり絶対の存在である。
ムハンマドはアッラーの言葉をきいた者である。ユダヤ教でいう預言者モーセらと同等のような存在。
このことが意味するのが、新たに神の言葉が書かれた聖典ができたことである。すなわちそれは新たな宗教ができたことである。イスラム教はキリスト教におくれること600年、紀元7世紀にムハンマドが神の言葉をきいたとして始められた宗教だ。
ユダヤ教から派生したキリスト教が広まった世界で、キリスト教の三位一体という矛盾に不満を感じていた中東の人が、自分たちのよろどころとなる宗教を考え出したのではともいわれている。たしかに、三位一体の考え方に矛盾を感じればキリスト教を信じることは無理だろう。そういった不満がイスラム教を生んだのかもしれない。
証拠としてイスラム教は聖典『コーラン』でキリスト教を否定している。
「神はすなわちマルヤム(マリア)の子メシアである」などと言うものは無信の徒。メシアが自ら断言しておるではないか。『これイスラエルの子ら、我が主にして汝らの主なるアッラーに仕えまつれ。まことに、アッラーとならべて他の何者でも崇めるような者には、アッラーが楽園を禁断の地となし給う。落ち行く先は劫火。不義成す者どもには助け手もあるまいぞ。(コーラン「食卓の章」第76節)
「まことに、神こそは三の第三」(三位一体の中の一つということ)などという者は無信の徒。神というからにはただ独りの神しかありはせぬはず。あのようなことを言うのを止めないと、無信の徒は、やがて苦しい天罰を蒙ろうぞ。彼ら、はやくアッラーの方に向きなおってお赦しを請えばいいのに。アッラーはなんでもすぐお赦しになる情深いお方なのに(同第77~78節)
マリヤム(マリア)の子メシアはただの使徒にすぎぬ。(キリストの神性の否定)彼以前にも使徒は何人も出た。また彼の母親もただの正直な女であったにすぎぬ。二人ともものを食うであった(普通の人間)。見よ、こうして色々と神兆を説明してやっても、よく見るがいい。彼らはああして背いて行く。(同第79節)
この三つの引用はどれもイエスはキリスト(救世主)でないこと、三位一体を認めないこと、神はただ一つしか存在しないことを説明し、キリスト教を批判している。
ここからもイスラム教はキリスト教の三位一体説に不満をもった人たちによってできた宗教だといえる。
イスラム教は過激派がテロを起こすという問題も抱えている。9.11のテロは大きな波紋を呼んだ。
彼らの神はジハード(聖戦)という言葉をのこしているため、異教徒を殺すことに対してそれほど抵抗がないのかもしれない(もちろんテロは過激派しかやらないことです)。ムハンマドのあと、イスラム教徒は「コーランか死か」の言葉を掲げヨーロッパ世界へ入り込み多くのキリスト教徒を虐殺した。
1、イスラムの教えのもとにあるならば平和である
2、それ以外の土地はすべて戦争の地である
この二つのことがイスラムでは信じられていると言う宗教学者もいる。
さらにはイスラムの神のために死んだら天国に行けると信じられているため自爆テロも恐れない。
こういった思想がテロリズムの問題になってくる。イスラム教を批判したいわけではない、ただ、「ユダヤの教えは本、イスラムの教えは剣」という言葉を思い出す。
ユダヤ教・キリスト教・イスラム教はどれも一神教(キリスト教は三位一体説により一神教を主張している)であり、たったひとつの天地創造の神がいるという共通点がある。それもユダヤ教とイスラム教ではその神はほぼ同義る。しかし、それがなぜ宗教戦争にもなるかというと、それはそれぞれ神から聞いた言葉が違うからだ。
それぞれ『旧約聖書(トーラー)』『新約聖書』『コーラン』という聖典があり、どれも神の言葉として信じられている。しかしその内容が三者三様なのだ。ここで一神教という要素が厄介になってくる。誰しもが自分たちこそが正しい神の言葉だ、他の宗教は邪教だということになる。なぜならば、神は唯一無二の存在であり、違う言葉が書かれた聖典を認めるわけにはいかなくなってしまうからだ。
多神教である日本人はどんな宗教がはいってきても、そういう神様もいるよね、といった具合に柔軟に対応できるが、彼らは絶対にそれができない。彼らの神はたった一つの存在だから。
考えればわかるように、この問題には答えがない。みな自分たちが正義であり、他は悪なのだ。永遠に出口がみつからない迷宮に入り込んでしまった。
中板か脇当の無くなった樽といえども、げに私のみた亡者ほどぱっくりと口はあけぬ。この亡者、上は頤から下は臭い音を発する部分まで幹竹割。腸は両脚の間にぶらさがり、内臓はまる見え、のみこんだものを糞にする不浄の嚢もまた。私は彼を凝視することにすっかり気をとられ佇んでいると、彼は私を見、両手でわが胸を押し開き、さて言う。「さあ見よ、わしがわが身引き裂く様を!見よ、マホメットの切りさいなまれを!わしの前を泣き泣き行くのはアリ、頤から額の生え際まで顔を割られて。」(神曲 地獄篇 第28歌)
イタリアルネッサンス期最大の詩人・ダンテの『神曲』という作品から引用した。
ダンテと神曲。どちらかは聞いたことのある人が多いのではないだろうか。タイトルは知っているが中身までは知らないといったかんじだと思う。
これはダンテが主人公となり地獄めぐり、天国めぐりをするという作品だが、地獄篇ではこう書かれている。
針の山の上、あるいは血の池の中でうめいて苦しんでいる男がいた。その男お顔をよくみたら、ムハンマドだったという話である。彼は神の言葉でないものを神の言葉と偽り、多くの人間を欺いた罪で地獄にいたと。
一神教の世界では、こういった作品が名作として後世にまで名前が残ってしまう。彼はローマ・カトリックの三位一体を文学的表現として昇華しようとした。カトリックのイスラム教批判がここにはある。
みてきたように、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教は一神教の三つ巴になってしまっている。
聖典の言葉が違うため、牛を食う食ってはダメといった違いもある。
宗教の違いは度々問題を起こし、凄惨な戦争や虐殺も数多く歴史に名を刻んでいる。
パレスチナ問題という現代の宗教問題もある。
この答えのない問題があるのが世界の現状であると知ってもらうのが今回の目標であった。この記事を読んで宗教と世界の関係性について興味をもってもらえたら嬉しい。自分なりに勉強をすすめ、理解を深めていってもらいたい。
さいごに、日本が多神教でよかった。
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