お金・国家・神とはなにか?『はだかの王様』ですべてが解ける!

人生観

ンデルセン童話『はだかの王様』は経済や宗教、哲学の分野でよく引用される話だ。スイフトの『ガリバー旅行記』と並んで社会風刺として有名である。

この記事では『はだかの王様』から人間の思い込み、そして国家や神の本質について解説する。

 

まずは『はだかの王様』のお話を簡単に振り返りましょう。

 

 

むかしむかし、わがままで見栄っ張りの王様がいました。

ある日王様のお城に詐欺師がやってきて、それはすばらしい服を持ってきたので売りたいといいました。ただしその服は愚か者の目には見えないと言うのです。そうして詐欺師が何もないのに服を取り出して見せるふりをすると、王様も居並ぶ家来たちもみんな口々に、これまで見たこともないすばらしい服だとほめました。誰も服など見えていなかったのですが、見えないと言ったら自分が愚か者と思われると考えて、まわりに合わせて、うそをついていたのです。

詐欺師が王様にその服を着てみることをすすめると、家来たちはこぞって、それはすばらしいと言います。その気になってはだかになった王様に、詐欺師が服を着せるふりをすると、家来たちはますます大げさに、よくお似合いになりますとほめそやします。王様はたいそう喜んで、詐欺師に大金をあげました。

王様はそんなにすばらしい素晴らしい服ならば、国民に見せびらかしたいと思い、パレードをしようと思いつくと、家来たちはみな、それはいいアイデアだと大賛成しました。そこで王様はそのすばらしい服を着て町中をパレードしました。

本当は何も着ていない、はだかなのに、集まったたくさんの人たちは、みんな口々にすばらしい服だとほめました。誰も服など見えていなかったのに、見えないと言ったら自分が愚か者と思われると考えて、まわりに合わせて、うそをついたのです。そんなふうにほめる声を次々と聞いて王様はたいそう得意になりました。

ところが道ばたでパレードを見ていたひとりの子どもが、突然不思議そうに、「王様ははだかだよ!」と叫びました。集まっていた人々は一瞬静まり返り、そして「本当だ、王様ははだかだ」というざわめきが広がっていったと思うと、やがて町中の大笑いへと変わっていきました。

 

 

どうだろう。

家来も、この国の住民も、王様も、みんな嘘をつくなんて馬鹿だと思ったかもしれない。たしかに、子どもが王様ははだかだと言う以前から王様がはだかなのは目に見て明らかだった。しかしみんなして王様は素晴らしい服を着ていると言っている姿は滑稽に見えてしまうだろう。

いわゆる「思い込み」というやつだ。

しかし、こういったことは現実でよくある光景だ。

と、いうよりも歴史は「思い込み」によって続いてきている。当然現在も「思い込み」の中で生きている。

 

 

~「思い込み」の例~

①いじめ

いじめの問題は日本の学校で大きな問題になっている。

いじめ問題も本質は「思い込み」だ。

誰かがいじめられていると、それに同調しておかないと自分がいじめられるのではないかという「思い込み」によっていじめは見て見ぬふりをされる。

はだかの王様の子どものように「王様ははだかだ」と誰かが言ってくれればいいのだが、そう簡単ではない。「思い込み」に縛られ、誰も声を上げられず、「王様は素敵な服を着ている」と言うしかない状態が続く。

「思い込み」はいじめの張本人をも縛る。クラスのみんながいじめに協力している、もし自分がここでいじめをやめたら周りから意気地なしだの根性がないと思われてしまうかもしれない。そういった「思い込み」により当の本人やそのグループの人たちも誰もやめようと言えなくなってしまう。

同じような例は連合赤軍の事件であった。連合赤軍は厳しい規律があり、それを破った者には壮絶なリンチが待っていた。当の本人たちはそれはやりすぎだと思っていても、もしそんなことを言えば自分がリンチされるという「思い込み」によってリンチに加担していた。泣きながら兄弟を殴り続け死に追いやったという凄惨な事件である。

 

②有名・人気なお店

有名だったり人気だったりするお店に食べに行ったとしよう。

そこで出てきた料理がたとえまずかったとしても「美味しい」と言ってはいないだろうか。例えば友達と食べに行って「まずい」「いうほどでもないな」といった味だったとしても、友達はまだいいとして、周りのお客さんや従業員から「こいつは味もわからない奴だ」と思われそうで本音を口にできない。そんなことはよくあるだろう。

そして後日、実はあの店の味そこまでおいしいと感じなかったんだよね。と友達に言ってみると、「実は私もそう思ってた」なんてオチはよくある話だ。私自身、そうした経験がある。

周りの人はおいしいと思っている。という「思い込み」によって、「王様ははだかだ」というような本当の事を言えなくさせてしまう。

 

 

③大日本帝国

第二次大戦期の日本はそれはもう「思い込み」に支配されていた。

鬼畜米英と呼び、捕まったら日本人の恥だの、拷問されて殺されるだの、壮絶な「思い込み」によって国民は自決を強いられていた。ましてや戦場では英霊や日本男児の誇りなどという理由で「バンザイ突撃」「特攻」などという想像を絶する作戦を計画し、実行していた。

そもそも戦争が始まる前から物資の不足や兵力の差などによって負ける事は、お偉いさんたちは知っていた。知っていて、それを阻止できなかった。陸軍大将や海軍大将は、開戦目前まできて弱気な事を言ったら他の人たちから弱腰だとののしられるかもしれないという「思い込み」により強硬論を推した。参謀も弱気な事をいったら上司から軟弱だと叱られるかもしれないという「思い込み」により勝てる見込みの作戦案を作成する。以下の兵隊も弱気なことを言えば馬鹿にされるという「思い込み」で従った。国民も戦争反対すれば「非国民」と罵られるという「思い込み」に縛られた。

歴史はすべて「思い込み」で成り立っている。当然、今も。

 

 

 

神、国家、そしてお金へ

上記で見てきた通り、人間の「思い込み」の力はとてつもなく大きいものだ。

「思い込み」は概念を生み出しているとも言い換えれる。

本来は人間どうしが生きていく上で、ある失敗をしたり特異な点があったりすると、その人を注意したり周りに合わせるように警告する。それがクラスという狭い空間になると、「失敗はだめだ、みんなと違ったらだめだ」という概念が形成されてしまう。この概念に縛られ、いじめが起こってしまう。

本来は、人間が他人と協力して社会的により良く生きていくためのものだった「概念」がいつのまにか人間を縛り付けている。

 

人気のお店の例もそうだ。人間どうし「おいしい」と共感して幸せな気分になれるものだった概念が独り立ちして今度は人間を縛っている。

 

人間の思い込みは概念として形成され、人間を縛り付けてしまう。

 

 

その最たる例が神であり、国家であり、お金である。

 

 

本来人間のあるべき姿を現した存在だった神。それがいつのまにか人間の手の届かない存在になっている。人間の素晴らしい部分をすべて持っている神という概念を一人歩きさせたことによって、われわれは神のような素晴らしい存在ではない、神はすばらしいという「思い込み」により宗教に縛られている人がいる。オウムなども同種のものだった。こういう宗教批判のようなことを言うと怒る人(特にユダヤ教から発展した宗教を信じてる方々)がいるので言うのが怖いが、結局は概念に縛られているだけである。

そもそも神というものは存在しない。証明できない。なのに「王様ははだかだ」とは言えずあるものだとして神は概念として存在している。

 

 

人間は他の動物と違うところとして社会的な点があげられる。他人と協力して生きていくことが可能なのだ。人類史は様々な人間のコミュニティを指摘している。村、町、ポリス、帝国、幕府、藩、県、市、そして国家。これらはそれぞれに住む人間のアイデンティティに関わる大切な要素であり、概念である。

国家というものが存在していることをどう証明できるだろう。法律や憲法というのなら、法律や憲法の存在はどう証明できる?実際に目で見て実体を確認できるものではない。人間が他人と生きていく上で、ある昔にあるコミュニティの人数が増えすぎて揉め事が起こったとしよう。よくある話だ。そうなったときに、誰が彼らを止める?対等な関係の人間では止められない。そこで指導者や権力者というものが誕生する。指導者に選ばれた人といっても、昨日のその人と何一つ変わらない、ただの一人間に過ぎない。だが、コミュニティの人々の「あの人は指導者だ」という思い込みによってその人は権力を発動できる。

国家も同じようなものに過ぎない。しかし、「国家なんて存在しない」なんて言おうものなら世界中の人たちからバカにされるだろう。つまり、誰も「王様ははだかだ」と言えず概念に縛られ続ける。そしてその歴史が続く。

 

 

人間が概念に縛られる最たる例はお金だ。

お金なんてただの概念にすぎない。概念に縛られずにお金を見たら、ただの紙、もしくはコインにすぎない。

1000円札をつくるのには数十円しかかからない。一万円も同じだ。そんなものを1000円や一万円分の価値があるとされるのは、日本人全員がそう「思い込んでいる」からだ。

そんな思い込みがない狩猟採集の時代を続けている部族のもとに100万円をもっていってみるといい。バナナ一つも交換してくれないだろう。

ただの思い込みという概念から誕生したお金に私たちはがんじがらめに縛られている。仕事をするのは何のため?お金を稼ぐためだ。概念にすぎないお金のために何十年も費やして死んでいくのだ!

本来は物々交換を円滑にするためにつくられたお金。われわれの物々交換を通しての生活をより良くするための存在だったものが今やわれわれを縛り付けている。

しかし、今やお金の在り方も変革の時がきている。電子マネーの台頭により、ついに「貨幣はただの紙だ」という発言ができる日がくるかもしれない。(結局電子マネーに縛られることになるが)

 

 

 

私たちがいかに概念に縛られて生きているか分かっただろう。

よく「海外に行くと人生が変わる、考え方が変わる」だったり、「あの人は変な宗教に入っておかしくなった」という話を聞くだろう。

それは単に今までの自分を縛っていた概念が通用しない環境を経験しただけのことだ。結局新たな概念に縛りつけ直される。

しかし、この「今までの自分を縛っていた概念が通用しない」という経験は非常に大切だと思う。そうやって自分を縛る概念の紐を一つ一つ緩めていけば、「人間」らしい生き方ができるようになると私は考える。

私も、まだ数えきれないほどの概念でがんじがらめにされている。それを一つ一つ解いていっているところだ。

 

 

*この記事では「人間」という言葉を使ったが人類学的にはホモサピエンスと呼んだ方が正しい。

*「思い込み」「概念」という言葉を使ったが、これはフォイエルバッハ、それに続くマルクスらの「疎外」にあたる言葉を馴染みある言葉に置き換えるために使った。意味は彼らの「疎外」と同じものである。

コメント

タイトルとURLをコピーしました