人間、どう生きるか【セネカの名言集】人生の短さについて5

セネカ哲学

ストア派哲学の第一人者となったセネカの格言は、ぐっと心にくるものがある。

彼の著書『人生の短さについて』から格言を厳選して紹介する。

ストア派哲学の神髄を味わってみてほしい。

今回はパート5なので、気に入ったら他のセネカの格言の記事も読んでいってみてほしい。

 

 

 

繁栄を維持するには別の繁栄が必要であり、かなえられた祈りのためにはさらに別の祈りをしなければならない。思いがけなく舞い込んでくるものはすべて不安定で、大きな幸福ほど崩れやすい。破滅を運命づけられているものは、だれにも喜びをもたらさない。一生懸命に働いて獲得したものを維持するために働く者の人生はますます短く、みじめである。

働いて獲得したものを維持するために働く。

そうする人の人生は短いものだとセネカは説く。

しかし周りを見渡せばそうしている人の方がはるかに多い。働いて獲得したものには、財産・地位・安定・家族などが含まれる。それらを働く以外のアプローチで維持していくには、どうするべきなのだろう。

 

 

 

人は苦労して望みを達成し、それを維持するために腐心する。ところが二度と戻らない時間のことには一向に関心を払わない。今まで熱中していたものに新しいものが取って替わり、希望は新しい希望を生み、野望は新しい野望につながる。

そうやって次々に何かに夢中になっているうちに、人生はどんどん過ぎて行く。私たちはいつもゆっくりした生活を楽しみたいと願っているのに、その願いはかなえられないのである。

獲得してきたものを維持するために時間を費やすことに何の疑問も抱かない人は多い。

しかし、それは自分の人生の時間を使っていることを頭にいれておくべきだ。それを知らずに費やしている人と、考えなしにその時間を使っている人とでは、最期に後悔する可能性がだいぶ違う。

何をするにしても時間をつかう。それは、自分だけの大切な人生の時間を使っている。

 

 

 

時間を奪われてゆとりのない生活をしている人はかわいそうであるが、とりわけ、自分のものではないもののために時間をとられて働いている人や、他人の睡眠時間に合わせて自分の眠りを調節している人、他人のペースに合わせて歩いている人、ことに、愛や憎しみのように世の中で一番自由であるべき事柄について他人の指図を受けている人などは、最もみじめである。

自分が何かに自分の時間を奪われているという感覚に陥ることができる人はまずいないだろう。

毎日の通勤、通学などは当たり前のこととして過ごしている。しかし、その日々の先に自分の未来はあるのか。

ないのなら、それは時間を奪われているいい例だろう。

この文の面白いところは、セネカが愛とともに憎しみを世の中で一番自由な事柄だといっていることだ。何を愛しても、そして何を憎んでも自由。

ならば、なぜ愛は良いもので、憎しみは悪いものとして認識されているのだろう。

 

 

 

これらの人々に人生がいかに短いかわからせてやるには、人生の中で自分自身のために使っている部分がいかに少ないかに気づかせてやることである。

残業を家にまで持ち込んで済ませるのは会社のためだ。文化祭の準備を毎日最後まで残ってやるのはクラスのためだ。記念日に渡すプレゼントを悩む時間は恋人のためだ。

それらは直接的に自分自身のためになる行為ではない。しかし、誰かのために時間を使い、喜んでいたりタメになったと感じることで満足感を得る人もいる。

もしあなたがそう感じない人ならば、そういった時間は自分にとって人生の無駄な時間になってしまうだろう。

 

 

 

正装の官服を着ている人や大広間でその名を知られている人を見てもうらやんではならない。官服や名声は人生を犠牲にして購入されるものだからである。ローマの執行官は一年を自分の名前を呼んでもらうために、全生涯を浪費している。

名声や地位を求める人生の人もいる。

私は名声も地位もないので、それがいいのか悪いのか、わからない。

しかし、その人はそういう夢があったのなら、夢を追いかけ続けるいい人生だったのでは、と私は思う。

その生涯が浪費だったとされるのは、名声や地位を得てから、自分の追い求めていたものが理想と違った場合だろう。夢を追いかけ続ける人は良い時間の使い方をしていると思うが、手に入れた瞬間、一気に時間の浪費だったと感じるリスクが内在している。

 

 

 

死ぬまで仕事を持っているということは、人間にとってそれほどうれしいことなのであろうか?なるほど、たいていの人同じような感情を持っていて、仕事をする能力がなくなってもなお働きたいと願い続け、肉体の衰えと戦っている。人々が、老齢を何よりも辛いと思うのは、老齢が人々から仕事を奪うからである。

とはいっても、現代で死ぬまで仕事をしていたいと願う人間はどれほどいるのだろう。

ほとんどいないだろう。

仕事から解放され、充実した老後を送ることが現代人の夢のような気がする。

ならば、現代の老齢の辛さとは何だろう。仕事が奪われることではない。

やりたいことをする活力がみるみる無くなっていくことではないだろうか。

 

 

 

法律によって仕事から解放されることはやさしいが、自分で自分を解放することは難しい。お互いに奪ったり奪われたり、相手の心を乱したり不快な思いをかけ合ったりしている人生には、得られるものや楽しみは何ひとつなく、心はまったく成長しない。

心の成長を重視している言葉だ。

成長には、さまざまな成長がある。そのなかでも心の成長となると、特に実感が難しい分野になる。

過去の自分を振り返り、「ああ、心が成長したな」と感じることはまずない。

しかし、おそらくセネカの哲学は、心の成長につががる行動が、最も適切な時間の使い方なのだろう。

 

 

 

人生が有限であることを心にとめている者は少なく、人々は見果てぬ夢に執着する。中には、死後のことまで手はずする人もいる。巨大な墓碑やこれみよがしの葬儀などだ。しかし、実のところ彼らにふさわしいのは、たいまつと小さな蝋燭の火に照らされて行われる葬式ではなかろうか。なぜなら、彼らの生涯は子どものように短かったではないか。

たいまつと小さな蝋燭の火に照らされた葬式とは、セネカの時代、子どもの葬式は夜間に行われたことから、子どもの葬式のことを指している。

見果てぬ夢を追い求め続けた者はの人生は、子どものように短い。

仏教の欲の概念と通ずるところがある気がする。仏教では欲をとり除くために修行をし、無欲の悟りを目指す。

無欲のなかに何を求めて人生を旅するか。あなたならどうするのだろう。

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