人間、どう生きるか【セネカの名言集】人生の短さについて4

セネカ哲学

ストア派哲学の第一人者となったセネカの格言は、ぐっと心にくるものがある。

彼の著書『人生の短さについて』から格言を厳選して紹介する。

ストア派哲学の神髄を味わってみてほしい。

 

 

 

たくさんの人がいる中で、考えるための時間を持っている者だけが解放された生活をしている。本当の生き方をしているのは彼らだけである。彼らは自分の生涯のよき管理人であることだけでは満足しない。一年一年を自分の年齢に付け加え、それと共に知識の貯えを増やしていく。

考えるための時間とは何か。

わたしたちはそこからはじめるべきだろう。セネカのように哲学を考えることなのだろうか。

人生について、どう生きればいいのかを求めている人にとっては哲学の時間を持つことは最も大切なことだろう。

人によって、なにについて考える時間を持つかは、変わってくると思う。しかし、仕事についてや、人間関係についてあれこれ考えるのは時間の浪費となるだろう。

 

 

 

この移ろいやすくて無意味な現在から目を転じて、過去の世界に身も心も委ねようではないか。過去は無限・永遠であり、すぐれた先人たちと共有することができるのだ。

この文章は、先人の知恵を活かす大切さを述べているところだろう。

現在は様々な要因で揺れ動く。昨日まで善だったものが明日には悪になっていることもある。

しかし、過去の先人たちの知恵、教えは確定した情報である。現在に揺れ動かされるくらいなら、過去から学んだ方がはるかに効率的なのは事実だ。

 

 

 

この世の仕事を遂行するために走り回り、自分はもちろん他人にも休む暇を与えない人がいる。彼らは狂人のように夢中で、毎日だれかの家を訪ね、戸口が開いている家は一軒残らず訪問し、さまざまな欲望が渦巻く大都会を出て、遠く離れた家々を訪ね、打算に裏付けされた挨拶を振りまく。ところが、彼らの目はどうかというと、なんにも見えていないのである。目を覚まし、自己陶酔や不作法から自分を解き放とうと努めている人がいったいどれだけいるだろうか。

何かに憑りつかれたように、一つのことに夢中になっている人は少なからず存在する。

それが芽が出れば、世間は評価する風潮がある。しかし、彼らはそんなものまったく気にしない。気にする余裕もないのかもしれない。

それ以外には目もくれない。

それしかみえなくなってしまっている。

 

 

 

賢人たちはあなたを死に追いやるようなことはしない。どのように死ねばいいかをあなたに教えてくれる。彼らはあなたの年齢をすり減らすようなことはしない。自分の年齢をあなたに増し加えてくれる。彼らとの対話はあなたに危害を加えることなく、彼らとの友情があなたを危険に陥れることはない。彼らから恩恵を受けたからといって、あなたの財布に課税されることもない。なんでも望むものを彼らからもらうことができる。たとえ、望みのたけを引き出せなくても、それはこの人たちのせいではない。

セネカという人物は、過去の哲学者の知恵にだいぶ影響・感銘をうけていたようだ。

賢人の考えというものは知って損ということは絶対にない。生きる上で役に立つことばかり言っている。

私は、セネカをその賢人の一人として、彼から言葉を受け取っている。

過去を振り返るとは、そういう意味なのだろう。

 

 

 

掟によってでっちあげた名誉や石に刻んだ記念碑はすぐに埋もれて廃墟となる。時の経過と共にあらゆるものは壊され姿を消していく。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、、、、、

どこの国の言い伝えにも、世の中は盛者必衰だという話はある。

世の中、まさにその通りである。

栄華を極めた人たち、その末裔たちは必ずどこかで倒される。

名誉や地位などの形あるものはいつか壊れる。しかし、心の中、思想は築き上げることはあっても壊されることはない。

 

 

 

人は身近なものは妬むが、遠く離れたものには寛大で、素直に敬服する。

知り合いが起業したり、芸人になろうとすると、バカにしたり無理だと笑ったりする人が多い。しかし実際に成功してその人たちの手の届かないところにいくと、急に態度を変えてすごいと褒めたたえる現象がある。

これは、まさにそのことを言っているのだと思う。

人間、妬みの対象になるものは、身近なものだと思い込んでいるものなのかもしれない。

 

 

 

過去を忘れ、現在をおろそかにし、未来を恐れる者の生涯は短く、悩みごとが多い。こういうだめな連中は、人生が終幕に近づいたときになってやっと、「ああ、おれはなんと長い間つまらないことをあくせくやってきたことか!」と気づくのである。

 

 

ときには一日が長く思えてしかたがないことがあり、また、夕食の時間がくるのが待ち遠しいとこぼすことがある。だからといって彼らの人生は長い、と考えるのは理にかなってない。彼らは熱中していたことがうまくいかないと、何もすることがなくなる。しかも、暇な時間をどう使えばよいかをわきまえていないから落ち着きを失う。そして他に何か打ち込めるものが見つかるまでは、退屈な日々をうんざりしながら過ごす。

 

時間の使い方、また、これまで何に時間をつかってきたかのツケが回ってくるのは人生の終幕の時である。なんと恐ろしいタイミングだろう。その時にはじめて結果発表がなされ、それはもはや覆しようがない。

後悔したところで、また、満足したところで、過去は一切変えることが出来ない。

今の時間の使い方がすべて自分の将来に関係を及ぼしていることを頭にいれておくことは大変重要だ。

 

 

 

剣闘士の模範試合の開始がアナウンスされたときや、その他のショーや娯楽の開演時間を待つときの合間がもどかしいのと同じで、彼らは間の日々が抜ければよいのにと願う。求めるものがなかなか得られないと時間が長く感じられるが、楽しんでいるときの時間は短くて速い。

 

しかも彼らは楽しみから楽しみへと転々と移って、ひとつのものにじっと止まっていられないから、楽しみの時間はますます短くなる。昼間が、長いどころかうとましいとさえ思う。ところが、いかがわしい女の腕に抱かれ、酒を飲んで過ごす夜はなんと短く思えるころであろうか。高い金を払って過ごす夜が、ひどく短く思えるのは当たり前のことである。彼らは夜を待ち望みながら昼を無駄遣いし、夜明けになるのを恐れながら夜を浪費しているのである。

 

時間の使い方、過ごし方、人間とはそれで決まる。

どんな才能があって、どんな努力をしてきたが、が重視されがちだが、正確には、何に時間を使ってきましたか。という質問が正しい。その答えが、その人という人物を的確に表すことになると思う。

努力=時間。

これは揺るぎない真実だ。

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