人間、どう生きるか【セネカの名言集】人生の短さについて3

セネカ哲学

紀元前に生きたストア派哲学の第一人者、セネカ。

彼の名前を知っている人は多くはないかもしれない。しかし、今日ここでセネカを知ったあなたは運がいい。

セネカの格言はそこらの言葉よりもだいぶ胸にくると個人的に思うからだ。セネカの警告を聞いて今日から生きてみると、違う生活がまっているはずだ。

今回はセネカ『人生の短さについて』から抜粋する。

 

 

 

先見性を自慢する人がいるが、この人たちの考え方ほどばかげたものはない、と私は思う。彼らの未来のよりよい生活を願って、忙しく働き続ける。将来の生活を準備するために生命を浪費する。彼らは遠い将来を見通して目標を立てる。しかし、目標を先延ばしにすることは人生最大の浪費である。「先延ばし」は、訪れてくる日々を彼らから奪い去り、現在をかすめ取る。

将来のために今を我慢する。

このことをセネカは口酸っぱく非難する。それは単なる時間の浪費に過ぎないと。

誰に教わったわけでもなく、将来のために今を犠牲にすることが良しとされている風潮に生きている。

それは人によっては、いや、人間からすればそれは時間の浪費にすぎないのかもしれない。

 

 

 

詩人は言う。「なぜ人はぐずぐずするのか?なぜ怠けるのか?その日は、その日のうちにつかまえなければ逃げ去ってしまうのに」と。

これは「明日やろうはバカ野郎」と同義だろう。

しかし、この一文は、より「時」を意識している。

時の流れのはやさ、そして時は有限であること。それをもう一度認識して生きねばならない。

 

 

 

老齢は、まだ子供っぽさの残っている心にも不意に襲いかかってくる。それと気づいたときには、老齢に対する準備も心構えもできていない。老齢が一日一日と近づいていることをわきまえていない者は、老齢の突然の来訪にあわてふためいてつまずき転げる。

心が仮に、いつまでも若々しくエネルギッシュであろうとも、重ねていく年齢だけはごまかせない。私たちの身体は常に衰えている。常に終わりえと近づいている。

それを自覚している者と、いない者では、晩年になり醜態をさらすか否かという差がでてくるだろう。

 

 

 

いろいろなテーマについて人が語るのをいくら聞いても、いくら本を読んでも、またいくら沈思黙考しても、旅人は旅を理解することができない。終点に近づいているな、と気づいたときには旅はもう終わっている。同じように、人生の旅は目覚めているときも寝ているときも、同じペースで休むことなくどんどん過ぎ去っていく。人生の渦中に巻き込まれている人間は終わりの時を迎えるまでこのことに気づかない。

学生時代を思ってみれば、この意味が良く分かる。

自分が卒業するのはまだまだ先だと思って学生時代を過ごしていたら、あっという間に月日が流れ卒業の日が来た。という経験は誰しもあるものと思う。

それと全く同じ事が、いまは人生というスケールで起こっている。

気が付いたら一瞬で時が流れていて、もう人生の卒業だった、という結果にだけはしたくない。

 

 

 

「我々は全力をあげて感情と戦わなくてはならない。策略を使ってもだめである。戦線を突破するには勇猛果敢な攻撃あるのみだ。針でチクチクつついてもダメである。感情に打ち勝つには、かみ切るのではなく押しつぶさなければならない。だから、詭弁は役に立たない。」

今まさに過ぎ去っている私たちの時間は、有効に、自分のためになることに使わなければならない。

しかし、そのために邪魔になるのが感情だ。楽をしたい、怠けたい、休みたい、、、そういった感情に勝てなければ、時間を浪費し続ける人生になるだろう。

感情に打ち勝つには、感情をおしつぶさねばならない、と。

もちろんそれは口でいうほど簡単ではない。いかにして感情をおしつぶすか。

 

 

 

 

人生は三期に分けることができる。過去、現在、未来である。現在の人生は短く、未来の人生は不確実であり、過去の人生は確定している。この過去の世界には、もう運命の女神の支配も及ばず、人間のいかなる権勢をもってしても過去を連れ戻すことはできない。

人生は三つのセクションに分けることができる。過去、現在、未来。

これに対しては誰も異論がない。しかし、考え方はだいぶ異なる。セネカは過去は確定したものであり誰にも変えることができないという。

しかし、西野亮廣氏は過去は変えられるという。

それぞれ自身の哲学でこの三つのセクションを捉える。セネカの考えに同調するのも良いし、自分の哲学で三つのセクションを捉えるのも、また良い事だろう。

 

 

 

現在という時間はたいへん短い、余りにも短いから、まったく時間がないのではないかと思う者がいるほどである。現在はいつも流動し、足早に過ぎていく。であるから、人生の渦中にいる者は現在にだけ心をひかれる。しかし、現在はあまりにも短いのでつかむことができない。それどころか、人々がいろいろなことに首を突っ込んでいる間に、現在という時は盗まれ、あるいは雲のように散りばり消えていく。

止まることのない時の流れをどう生きるか。

それには、時の流れにとらわれてはいけないらしい。

これまた難しいことを言われたものだ。これだけ「時」の流れの速さを意識させておいて、「時」にとらわれるな、と。

時間をはかる尺度も、時計ではなく人間個人だ。どのように時をとらえていくべきか、個人個人で決めて生きていくのが望ましいのだろう。

 

 

 

 

今ローマ人は、役にも立たないことを覚えるのに熱をあげている。つい先日、最初にこれをやったローマの将軍はだれ、あれをやった将軍はだれである、ということを教えている男の話を私はきいた。彼によると、最初に海戦で勝利をあげたのはデュイリウスで、最初に象を使って戦いに勝ったのはキュリアス・デンテイタスである、とのことであった。こんな知識を持っていてもなんの得にもならないのだが、くだらないことがけっこう魅力を持っていて人々の関心を集めるのである。

こういったいわゆる雑学というものは知っておくと「面白い話」ができる。それは人々から歓迎されることが多い。

セネカからすれば無駄な知識でしかないこの知識は、「時」の概念を持たない人々には受け入れられるようだ。

私個人の意見では、こうした知識はいわゆる歴史の知識なので、知っておいて損はないと思ってしまう。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」の通り、歴史を知ることは一定の意味がある。

セネカの上記の文は以下のように続く。

彼らが真面目に事実を伝えていることは認めるとしても、また、たとえ彼らが自分たちが書いたことは事実である、と誓約するとしても、彼らの話によって、誤った知識の数がどれだけ減らせるだろうか?彼らの伝える事実がどれだけの人の感情を抑制できるであろうか?だれをより勇敢にし、だれをより公正にし、だれの心をもっと高貴にすることができるであろうか?

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました