人間、どう生きるか【セネカの名言集】人生の短さについて1

セネカ哲学

ストア派哲学の第一人者となったセネカの格言は、ぐっと心にくるものがある。

彼の著書『人生の短さについて』から格言を厳選して紹介する。

ストア派哲学の神髄を味わってみてほしい。

 

 

 

人間に与えられた寿命は決して短くはない。私たち自身が寿命を浪費しているのである。人生は十分に長いのである。上手に使えば、偉大なことをいくつも成し遂げられるほどたっぷり与えられている。

時間を無駄にしてはいないか。はっと我にかえる言葉だ。

やりたいことはなんでも達成できる時間は人生には与えられている。

自分自身で、自分の時間を無駄に浪費してはいけない。

この文は最後にこう続く。

しかし、ぜいたくや、いいかげんなことに浪費したり、よくない目的のために使っていたりすると、最後の必要に迫られたときに、時が足早に過ぎつつあることに気づき、時すでに遅いことを思い知らされるのだ。

 

 

人生の中で、我々がほんとうに生きる部分は実にわずかである。他の部分は人生ではなく、単なる時間の浪費にすぎない。

この一文は、セネカの『人生の短さについて』にて引用されている文で、セネカが影響をうけた詩人の言葉だという。

この類の格言は他にも多くの偉人が残している。

生きていることと、浪費していること。それは、将来になり過去を振り返らないとわかりづらい。今、自分が時間を浪費しているのか、それとも生きているのか。

リアルタイムでは分かりづらいのが、この言葉の難しいところだ。

 

 

 

立派な人物というものは、一見横柄な顔つきをしていても、相手を分け隔てなく向かい合い、あるときは謙虚に耳を傾け、またあるときはそばに招き寄せてくれる。自分を見つめようとせず、自分に対して耳を貸そうともしないのは、実はあなた自身なのである。

立派な人物というのは分け隔てなく人と向かい合い、耳を傾ける。

それは、自分自身と向き合った人物にこそできると言っている。

自分を見つめなおし、自分の本心に耳を傾けてみると、自分の人生が浪費から「生きる」ことに変わるのかもしれない。

 

 

 

人は、こと財産を守るとなるとケチになるが、時間についてはたいへんな浪費家である。

お金は誰しも節約する。しかし、時間はどうか。湯水のように浪費している人もいるだろう。

セネカが生きたのは紀元前、現代とは生活が全く違う。今では時間を浪費しようと思えば無限にできてしまう。インターネットの登場がそれを可能にさせた。

お金を節約することと同じものとして、時間の節約も頭に入れなければならないかもしれない。

 

 

 

「あんたもいいかげん年をとったねえ。もうすぐ百歳だ。ところで、あんたの人生を振り返って計算してみてくれ。質屋通いにどれだけ時間を使ったか、奥さんやお客さんとの対応に、あるいは夫婦喧嘩や公務で市内を駆け回るのにどれだけ時間を使ったかを考えてみて欲しい。

自分の不注意でかかった病気にかけた時間、怠けたり何もしないで過ごした時間も計算に加えてくれたまえ。すると、これはよくやったといえる時間が思ったより少ないのに気づくだろう。自分は確固とした目的を持ったことがあったか。自分が意図したとおりに過ごした日々のなんと少ないことか。あんたが思い通りに行動できたのはいつのことだったか。あんたが自然な表情をしていたときや、あんたの心が平穏であったときのこと、あるいは長い人生の間にあんたが成し遂げたことを考えてみてほしい。

自分ではそんなに失ったと思っていないのに、あんたの人生がどれだけ多くの人に盗み取られていたことか。何の役にも立たない悲しみやばかばかしい喜びに、貪欲さに、世の誘惑に、どれだけ多くの時間をさいていたことか。そして最後に、あんたに残された自分のための時間がなんと少なくなっていたかを、記憶をたどりながらじっくり考えてみてくれないか。

するとあんたは、未熟なまま死のうとしている自分の姿に気づくだろうよ。

 

人類屈指の言葉だと思っている。

初めてみた時、ぶん殴られたような衝撃が走った。

自分が100歳になったとき、記憶をたどったとき、自分が未熟なまま死のうとしている事に気づけば、それこそ死ぬほど後悔するだろう。

何に時間を使っていくのか。

この言葉は、一生胸に持っておこうと決めた言葉だ。

 

 

 

人は、まるで永遠に生きることを運命づけられているかのように信じて暮らしている。自分の心に潜む薄志弱行の性格を省みることもなく、不注意のうちにやり過ごしてきた時間がいかに多いかを考えてもみない。

人間は永遠に生きるわけではない。

そんな当たり前なことを、生活していると、ふと忘れてしまう時がある。

仕事が忙しいとき、学校が忙しいとき、悩んでいるとき、、、少なくないタイミングで、この当たり前の事実を忘れてしまう。まるで、永遠に生きれるかのように時間をつかってしまう。

人生は、永遠ではない。

 

 

 

「50歳を過ぎたら気楽に暮らすとしよう。60歳を過ぎたら公務から退こう」という人々の声を聞いたことがあるだろう。そう願ってはいても、果たして人の生命はいつまでも続く、という保証が与えられているだろうか?人生の残り時間を、自分自身を生きるために充てよう、知力を磨くためには、仕事をし終えてからの人生を振り当てることにしよう。

こんな考え方を、あなたはみっともないとは思わないのか?

「退職してから~をしよう。」

という言葉は大変耳にする言葉だ。

あたかも退職後には自由な時間があるような、あるいは退職後には無限の時間が待っているようなニュアンスが含まれている。

こういった考え方を、セネカはみっともないと切り捨てる。

自分の人生の時間を、自分に振り当てないのはみっともないことだ。

この文は後にこう続く。

もうそろそろ人生の幕を下ろさなければならない時になって、本当に生き方を始めようとは、遅きに失するではないか。大切な計画の実行を50,60歳まで延期するとは、また、少数の人間しか到達できない年齢になってから本当の人生を始めようとは、人の生命に限りがあることを忘れた愚行というほかない。

 

 

 

 

千年も万年も生きたいと願っているくせに、人は自分で自分の生命を縮めている。しかも、その理由をだれもわかっていない。それは、人間の悪徳が時間をどれだけでものみ込んでしまうからである。あなたが持っている時間の空間は、もともと足早に過ぎて行くものであるが、理性をもって処理すれば引き延ばすことができる。それなのにあなたは、この空間をしっかりつかまえて引き戻そうともしないし、またブレーキをかけようともしない。まるで不用品か、いくらでも補充がきくもののように思って、どんどん過ぎ去る時にまかせているのである。

自分の時間を、自分で決めている人はいる。

何時に起きて、何時に何をして、何時に寝る。それを守ることは難しいため、だいたいは長続きしない。

しかし、自分の時間管理をすることは非常に大切なことなのだと、セネカの言葉をきいて思う。

その日のタイムマネジメントをしていなければ、やらなければならないことを、やらないまま、その日を終えてしまうかもしれない。それこそ、セネカのいう、時間の浪費なのだと、私は考える。

 

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