ストア派哲学の第一人者、セネカの格言を紹介する企画第2弾。
セネカ『人生の短さについて』からの抜粋をする。
彼の言葉は胸にグッとくるものがある。
人生の生き方というものを、考える機会にしよう。
人間は興味が分散するとものごとを深く理解することができなくなり、詰め込まれるものを受け付けなくなる。生きるということほど忙しく、また習得の難しい技芸は他に類を見ない。他の技芸については、どこにも多数の教師がいて教えてくれる。ある種の技芸については、幼い少年たちでさえ完全にマスターして教師を務めている。しかし、いかに生きるかを学ぶには一生かかる。そして不思議に思われるかもしれないが、いかに死ぬかを学ぶにも一生かかるのである。
いかに生きるかを考えるコツは、いかに死ぬかを考えることなのかもしれない。
何事もゴールを決めて、そこから逆算して日々の日課を割り振るのが効率がよい。
それと同じで、いかに死ぬかを決めてしまえば、どう生きるかも見えてくるのではないだろうか。
実に多くの偉人たちが、余計なものはわきに寄せ、富も仕事も快楽も放棄して「いかに生きるべきか知ること」を生涯の唯一の目的として取り組んできたが、たいていの人は、「まだわからない」と告白しながらこの世を去っていった。まして、他の人々は、ほとんど人生を知らないままに死んでいくのだ。
人生とはどうあるべきか。
ただそれだけを探求してきた人は、それにたどり着かず死んでいった。まして、一般に生きる人は自分がどんな人生を歩んでいるのかを知らずに死んでいくのだと。
難しく考えてしまうと一生を費やしてしまう難題なのは確かだ。
凡人が陥りやすい欠点もなく、寸時も自分の時間を無駄にしない人物でなければ人生は理解できない。彼らは自分に与えられた時間をすべて自分に役立つように使うから、その人生はたいへん長い。一刻もおろそかにせず、無駄にもしない。これ以上のケチはないと思えるほど時間を大切にして、わずかの時間すら他人まかせにはしない。自分の時間と交換するに値するものは存在しないとさえ考えている。だから賢明な人の人生は長い。
「自分の時間と交換するに値するものはない」
この言葉は我々日本人がしかと胸に刻むべき言葉だろう。
日々、どれだけの時間を自分以外のものに費やしていることか。だから、1年が過ぎるのを毎年のように早く感じるのだろうか。
この文は最後にこう続く。
しかし自分の生命を他人に盗み取られている連中は、当然のことながら短命に終わる。しかも彼らは、ふだん生命を無駄にしているのに気づかない。
高官の地位を望んでいた男が、いったんその官職につくと、束桿をわきに投げだしたくなり、「今年はいつになったら終るのかねえ」と繰り返し嘆息する。公党競技会の執行を委託されているあの高官は、そのような地位を獲得したことを誇りに思ってはいるものの、「いつになったらこの仕事から離れられるんだろう」と愚痴をこぼす。ある弁論家はどの大広場でももてはやされ、声が届かないほどの大観衆が広場を埋めるが、「いつになったら休暇がとれるんだろう」と嘆く。人はみな足早に人生を歩む。今日に倦んで明日をあこがれる。
出世すれば、上り詰めれば、自分の求めている世界が手に入ると思いがちだ。
しかし、現実はそうではないことのほうが多い。役職が上がれば責任も仕事も大きくなる。今よりも自由な時間は減る可能性の方が高い。
そうなればもう逃げられない。人生は足早に過ぎていくのみ。
そうならないためには、その仕事が自分の天職と呼べる必要があるだろう。
自分のすべての時間を自分の内なる要求に合わせて使い、今日を二度とめぐってこない一日として計画する者は、明日を待ち望みもせず明日を恐れもしない。
今日を世界最後の日だと思って過ごせ。
誰だったか、こんな言葉を言った起業家がいたのを覚えている。
意味するところは同じだろう。今日が世界最後の日なら、あなたは今日しようと思っていることをするだろうか。
白髪をいただいてしわが寄ってくるという理由だけで、その人は長生きをしてきたと考えるのはいわれのないことである。それは長生きしたのではなく、長くこの世に存在してきたというのにすぎない。
存在しているだけの人間と、長く生きてきた人間。
その違いは第三者からも一目瞭然だが、どういう日々を積み重ねれば「生きた」と言えるのだろうか。
そこがわからなければ、ただ長く存在していただけの人間として終わってしまう。
他人の時間を欲しがる人や、時間を求められると寛大に与える人を見ると、私は不思議でならない。彼らの注意は時間を必要とする対象物に注がれていて、時間そのものにはまったくの無頓着である。他人に要求している時間も他人に与えようとしている時間も、どちらも無価値なものだと考えているらしい。世の中でいちばん貴重なものを、人々は粗末にしている。時間は無形で目に見えないから、人はその価値に気付かないのだ。
何かやりたいことや、行きたい場所がある時、人間はその「モノ」や「場所」に価値を見出すが、そこに消費される「時間」をコストとして考えない。対価としてかかるお金のみをコストとして計算する。
「時間」もコストにいれる。
これが大切なのかもしれない。
人々は年金や失業手当を大事だと思うから、それを得るためにあらかじめ労働やサービスや努力を出し合って蓄積する。しかし時間は無価値だと思っているから、気前よく消費してはばからない。ところが同じ人間が、病気になり死期が近づいたとなると医者にしがみついて延命を懇願する。また、死刑を宣告される恐れがあると生き延びるために全財産を惜しげもなく使おうとする。人の心はまことに気まぐれである。もし、未来の歳月をあらかじめ自分の前に並べて置くことができれるならば、人々はその残り少なさにあわてふためき、急に時間を惜しむようになるだろう。
老後のために今働いておこう。老後のために今貯蓄しておこう。
そう考えるのは至極当たり前のようになっている。
しかし、途中で病気にかかり命に関わると言われたらどうするだろうか。おそらく、全財産をはたいてでも治療してもらうだろう。
治ったとして、では、それまで貯めたお金、費やした時間はなんだったのだろう。
何気なく日々を過ごしていると、限りある命の存在を忘れてしまう。
人生はスタートした道を一途に進み、逆戻りすることも立ち止まることも許されない。時は物音ひとつ立てないから、人はその速さに気づかない。音もなく過ぎ去る。たとて王の命令であろうと、あるいは民衆が拍手で訴えようと、時はアンコールに応えてくれない。出発の日とまったく同じ調子で走り続ける。どこかで脇道にそれたり、道草をくったりすることもない。人が時間を無駄にしている間に、人生は急ぎ足で過ぎ去り、死が近づいてくる。
誰がなんといおうと、何をしようと、時の進むはやさは変わらない。常に一定。不変である。
しかし、それと同じくして誰にでも平等だ。誰しも1日24時間ある。それは共通の時間だ。
それなのに、同じ30歳でも、何かを成し遂げて成功している人と、何も成し遂げていない人がいるのはなぜだろう。過ごした時間は同じはずなのに、実績が違うのはなぜだろう。
それは一重に、時間の使い方である。時間だけは、誰しも平等に過ぎる。
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