どれが本当?坂本龍馬暗殺の定説はこちら

歴史

坂本龍馬の暗殺は幕末史で必ずと言っていいほど語られる定番の事件だ。しかし、誰が龍馬を殺したのか、なぜ殺したのか、どのように殺したのか。この答えはまだ出ていない。

現在この事件については様々な視点から数多くの説が挙げられている。

今回はその中でも定説となっているものを紹介する。

 

*今回紹介する定説は、加治将一氏の『あやつられた龍馬ー明治維新と英国諜報員、そしてフリーメイソン―』を参考にしている。

 

 

 

事件は1867年12月10日(旧暦11月15日)、京都の醤油商、近江屋で起こった。

事件三日前、龍馬は風邪をひき、体が楽だというので、近江屋裏手にある土蔵から母屋に移った。

龍馬は母屋の二階奥、八畳間に引っ込む。

翌日、伊東甲子太郎が訪れる。彼はもともと新選組幹部だったが、脱退して同士数十名とともに尊王攘夷派に転向。御陵衛士として活動する。その伊東が、ふらりと立ちより、新選組が龍馬を狙っているから、警戒するようにと忠告する。

たまたま同席していた中岡慎太郎(龍馬と同じく土佐藩士、龍馬の相棒的存在)はそれを素直に受けたが、龍馬は顔を曇らせたという。新選組から寝返った伊東という男が信用ならなかったらしく、龍馬は苦々しい顔で聞き流したという。

日が変わって、事件当日、中岡慎太郎と岡本健三郎(同じく土佐藩士)が訪れた。そこに出入りの本屋、菊屋のせがれの峯吉が立ち寄る。

夜九時ごろ、龍馬がシャモが食べたいと言い出し、峯吉を使いに出す。それを機に、岡本も近江屋を出る。

家には一階の奥に近江屋の家人、二階表の八畳間にボディーガードの藤吉、二階奥の八畳間に龍馬、中岡の二名が残った。

まもなく表で声がした。

二階で楊枝を削っていた藤吉が階段を降り、木戸を開ける。

「十津川の者だが、坂本先生にお目にかかりたい」

現われた武士が名刺を渡した。

十津川というのは土佐藩の領域。十津川出身の郷士は陸援隊(中岡がトップを務める討幕派武力集団)にも50名ほど在籍しており良く知っている者も多く、藤吉は悪事の匂いを感じなかった。

気を許して二階に上がる。

暗い六畳間を通り過ぎて、その奥にいる龍馬に名刺を渡す。

藤吉が踵を返して階段まで戻ると、先ほどの武士が、すっとそこに立ち上がっていた。表情は暗くてほとんど見えない。異変は感じなかったが、藤吉はせっかちな人だと思った。

一瞬だった。いきなり斬りかかった。藤吉は昏倒。その物音に、奥で名刺を眺めていた龍馬が「ホタナエ」と叱りつける。藤吉が誰かと悪ふざけをしていると思ったのだろう。土佐弁で、「騒ぐな」の意味である。

と、闇の中からすべるように刺客が飛び込んできた。

刺客は二人いた。うち一人は「コナクソ」と叫んで、中岡の後頭部へ斬りつけ、もう一人は、座ったままの龍馬の額をざっくりと切り裂く。薄暗い行燈の光に、男の顔が浮かんだ。無表情だった。

立ち向かう間もない龍馬は、それでも座ったまま身体をよじって床の間の刀に手を伸ばす。

その時、二度目の太刀が振り下ろされる。剣は背後から龍馬の肩に入り、背骨まで袈裟に斬り下げられる。

敵の攻撃は止まらない。間髪いれずに三の太刀が打たれる。空気が不気味に唸った。龍馬はほとんど無意識に、刀でそれを受ける。鞘のままだ。だが、敵の力が圧倒し、そのまま冷え切った太刀が龍馬の頭蓋を捉えた。

脳漿が飛び出し、途方にくれたようにその場に崩れる。

「石川、刀はないか、刀・・・」

と言いながら龍馬が動かなくなった。

石川は、中岡の偽名である。敵をかく乱するためにも、偽名を使って身を護るのは常識であった。

中岡も半ば意識を無くしていた。太刀をとる暇もなく、とっさに掴んだ小刀で応戦したが、無数に斬りこまれていたのである。

敵は、中岡の臀部にぶすりと刀を刺した。だがぴくりともしなかった。深手を負い、神経が寸断されている中岡は、それをどこかで感じていた。

「もうよい」と、傍らのもう一人がうながし、薄ら笑みを浮かべて、引き上げにかかった。

静まり返った。

龍馬が急に息を吹き返し、中岡に声をかけた。

「石川、手はきくか・・・」

「なんとか・・・」

龍馬は助けを呼ぼうとしたのか、身体を引きずりはじめた。鮮血が畳を濡らしていく。ようやくとなりの六畳間まで這い辿った。

「おれは脳をやられた。もう、なにも見えん」

絶命。

中岡は、もうろうとしながらも、なぜか北隣、井筒屋の屋根の上まで辿り着き、そこで気絶。延命は二日だけだった。

 

 

 

 

 

以上が、定説となっている龍馬暗殺の経緯である。

この再現シーンは、事件後すぐ駆け付けた人間たちの口伝と「坂本龍馬関係文書」を寄せ集めて作成したもので、世間一般に知られている暗殺のイメージとなった。

しかし、この「坂本龍馬関係文書」が決定版になるかというと、これも怪しいものになる。これは土佐の岩崎鏡川が大正15年に発表したものだが、この書にしても、やはり口伝やら証言やらを細々とかき集め、なんとかまとめた代物にすぎない。

そして、大正15年というのは暗殺から約60年も経過しており、すでに生きた証人は存在しない。

 

 

龍馬暗殺に関してはこの説以外にも存在するため、それも記事として紹介している。

この機会に、龍馬暗殺の真相の雑学を身に着けよう。

「坂本龍馬暗殺」新選組説など2つの説を紹介! - 人生の教科書
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コメント

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