ジョン万次郎と開国。~日米和親条約を中心に~

ジョン万次郎と日本開国について。

ジョン万次郎は江戸時に漂流民としてアメリカ船に保護され、幼少期~青年期をアメリカで過ごした人物である。

彼を絡めた日本の開国について少しだけ論じたい。

ジョン万次郎(中濱万次郎)

土佐藩の漁師活動していたが漂流しアメリカで過ごす。その後日本に帰り英語教育等に尽力した。

 

 

 

【先行研究】
石井孝『日本開国史』2010年4月 吉川弘文館発行

1853年ペリー来航から、日米・日蘭・日露・日英修好通商条約の調印について、世界情勢と国内情勢両者の視点から書かれている。

・米国の1回目のペリー来航時の目的は、
1、 日本諸島で難破し、もしくは荒天のため日本の諸港に避難したアメリカ船員の生命・財産を保護するため恒久的な協定を結ぶこと。
2、 食料・薪水等を補給し、もしくは災害のさいは、航海を続行することを可能ならしめるような修理をするため、アメリカ船舶が日本の1港以上に入るのを許されること。
3、 アメリカ船舶がその積荷を販売もしくは交換する目的をもって、日本の1つ以上の港に入る許可を得る事。
の3つであった。これは中国での貿易で英国に対抗するために日本を中継地点として活用しようとするもので、日本と貿易をしたいという気持ちは薄かった。

・日米和親条約締結の際は、幕府側は海外知識に乏しく、「鎖国時代における長崎貿易の限界内」の交渉だった。当時幕閣の首班であった阿部正弘の対外政策は、はじめ鎖国説をとり、開国制作へ転換する展望をもつことができなかった。これは「開国の切迫する国際情勢になんらの理解を持たぬ尊攘論の教祖・徳川斉昭を対外政策の顧問としていたこと」からうかがえる。
条約締結交渉に当たった林大学頭は、「思想的にはおそらく保守主義の結晶で、鎖国に終末を告げさせる日米交渉の首席全権たる名誉をになうとは、皮肉といえばあまりにも皮肉」な人物だった。
海防掛勘定奉行川路聖謨は「アメリカは万国に勝たれる強国」で打ち払いをして敗北すれば「御国体を汚す」ことになるから交易したらよいと説いたが、この対米交易説も「どこまでも鎖国時代における長崎貿易の限界内のものであって、到底、開国という世界の大勢に順応できるものではない」。

【批判】
米国の日本開国政策について、筆者は
① 中国市場への進出と英国への対抗心
② 捕鯨業の発展に伴う漂流民の安全
の二点をあげている。
① に関してはアヘン戦争後に、英国の対中貿易をみて始まったとしている。アメリカも中国との貿易を大きく効率的なものにしたいとの視点から、中継地点として日本に目をつけ燃料の補給の許可を得ようとした。しかし、日本は外国船が近づくと大砲を打ってくるとの事から問題になっていた。

この点については、1840年のアヘン戦争による南京条約に対し幕府は1842年に天保の薪水給与令を出している。当時はすでに異国船打払令はなく、燃料の補給を外国船に認めていたことから、この指摘は間違っているのではないか。
また、②について筆者が例に挙げているのはローレンス号とラゴダ号の漂流民についてである。ローレンス号は台風のため遭難し七名が択捉島に漂着した。松前藩が彼らを長崎におくりオランダ船で送り出したが、乗組員の一人ハウがシンガポールの新聞に一人が逃亡を企て虐殺されたといった。しかし事実は病死であった。
ラゴダ号は松前に漂着した15名をのせていた。彼らは実は漂着ではなく脱走であった。彼らは長崎に護送されたが何度も逃走を企てたため監視の厳しい牢屋式に入れられた。一人は病死し、一人は強い監視に絶望し自殺した。
長崎での生活に多くの制限がかけられていた事は事実のようだが、筆者のいう燃料の補給の拒否については具体的な例があげられていない。
また、当時アメリカが太平洋捕鯨で大きな成果を上げていた事は正しい。
また、対中貿易に中継地点として日本があがったのは、米墨戦争によってカリフォルニアを領土とし、太平洋側の港が出来たことによる。
カリフォルニアがアメリカの31番目の州になったのは1850年9月5日であった。ジョン万次郎は当時ゴールドラッシュに沸いたカリフォルニアの金山で600ドルを貯めた。万次郎がカリフォルニアを出たのは9月17日であったため、彼は歴史的瞬間に現地にいたことになる。日本帰国の資金集めを新しい土地カリフォルニアで行い、大流行していた捕鯨に従事し帰国したことは、当時のアメリカ情勢にマッチしていたといえる。

ペリー来航における幕府側の対応についてであるが、そもそもジョン万次郎の名前は一切出てこない。それでいて幕府については「鎖国時代における長崎貿易の限界内」の知識と断定している。たしかに、1853年のペリー来航時は黒船が来ることを事前に知っていながらもちゃんとした対応策もないまま迎えてしまった。阿部正弘が過激尊攘派の徳川斉昭を「海防参与」という役職に就任させたのも世界情勢からみて好ましいとは言えない。そもそも、幕政は溜間詰譜代大名の専権事項であり、御三家は幕政には一切口出しできないという不文律が存在していた当時、徳川斉昭を海防参与に登用したことは疑問が残る。
しかし、条約締結を翌年としペリーを一旦退けた後、阿部正弘は海防掛を一新し、諮問機関から行政機関へと変貌させた。阿部はそれまであった海防掛から川路聖謨、松平近直以外を外し、堀利煕・岩瀬忠震・永井尚志・大久保一扇・江川英龍らを登用した。岩瀬忠震は日米修好通商条約でハリスと交渉にあたり、幕府に貿易により富国強兵を目指すこを訴えた人物である。
そういった中で、アメリカの国勢を知るため幕府は万次郎を呼び出した。その辞令が出たのはペリー艦隊が去ったわずか8日後の1853年7月25日であった。万次郎が面会したのは阿部正弘・林大学頭・川路聖謨・江川英龍らであった。そこで万次郎はアメリカについてだけでなく海外事情について彼が知っている知識を答えた①。林大学頭がペリーと交渉にあたったのは当然この後の事であるため、筆者のいう「思想的にはおそらく保守主義の結晶で、鎖国に終末を告げさせる日米交渉の首席全権たる名誉をになうとは、皮肉といえばあまりにも皮肉」な人物という林大学頭の評価は正しいとは思えない。そもそも、「おそらく保守主義の結晶」という言い回しは適切でない。「おそらく」というただの思い込みに過ぎないようにみえる。
また、川路聖謨についての「どこまでも鎖国時代における長崎貿易の限界内のものであって、到底、開国という世界の大勢に順応できるものではない」といった批判も、万次郎からの情報提供があったことから正しいとはいえない。そもそも、彼は尚歯会と関わりがあり、シーボルトや蘭学を中心に世界情勢を把握していた。尚歯会は蘭学ネットワークといわれる西洋知識を持つ人たちの集まりで、長崎から入る情報のほか漂流民から生の情報を聞き出し共有していた。仙台漂流民津太夫はロシアに漂流したが帰国までに南アメリカ大陸、アフリカ喜望峰のオランダ領のドーブラナテジタという地名の場所などにも訪れている。また、太平洋上にあるマルギーズ島に住む全裸の民族の生活実態を目撃している。1800年初頭の様子である。津太夫の体験は蘭学者大槻玄沢に伝えられている。その他漂流民の話を以下にまとめる。
〈大人と小人〉
高松の漂流民吉右衛門らが漂着した蛮人島で、背が6尺78寸から7尺ある大きな人種をみた。また、津太夫はロシアでレザノフの家で2尺45寸ほどの小人を見た。

〈夜国人〉
紀州日高の漂流民虎吉らは太平洋上でアメリカ船に助けられ、そのまま北極に近い夜人国へ行った。江戸時代には南北極に近い、半年昼・半年夜のところを夜国または夜人国といった。船は北に進み氷海を進んだ。夜国人は背がひくく、かわ衣を着て頭はざんぎりにして、色が黒いと記してある。
〈ハワイ土人〉
虎吉はその後常夏の国ハワイにいき、そこで万次郎と出会う。ここは島の土人は尊卑の別なく、一同に赤裸で、獣とあまり違わない生活をしていた。人が死ぬと男も女もそれを食べるという。親子の区別もつかないほどの蛮地であったという。
〈安南国〉
奥州彦十郎らが記した『南漂記』にでてくる安南国では夫婦死別の儀式が書かれている。夫婦で生き別れ、生き残った者はその夜一晩、赤裸になって死人と添い寝するという儀式。
〈ロシア〉
伊勢の漂流民光太夫の話。ロシアのカザリン女帝に仕えた歌手が三人いたが、いずれも幼いときに睾丸を抜き取られていた。睾丸を抜いて人道を絶てば、微妙な音声が出て、老年になっても声が衰えないとされていた。

 

【参考文献】

 中濱博『中濱万次郎―アメリカを初めて伝えた日本人―』冨山房インターナショナル

 原田伊織『消された「徳川近代」明治日本の欺瞞』小学館

 鮎沢信太朗『漂流』日本歴史新書

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この記事を書いた人

文系で日本史専攻→システムエンジニア
世の中の役に立つシステムを開発・導入してます。
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