人間いつかは必ず死ぬ。
それが早いか遅いか、それだけだ。
誰かがこんな言葉を残していたような気がする。
社会に目を向けてみると、仕事に追われてせわしなく生きている人間ばかり。のんびりゆったりと生きている人間というものは、必死に探してようやく一人見つかるかどうか。
今回は「生きる、死ぬ」ことについて、恒例のように徒然草の一節とともに考えてみたい。
命あるものを見ると、人間ほど長生きするものはない。蜉蝣は夕方を待って死に、夏の蝉は春秋を知らずに死ぬ、そういう短命のものもいるのだ。じっくりと一年を暮らす間だけでも、このうえなくゆったりとしたものであることよ。いくら生きても満足せず、死ぬのが惜しいと思うならば、一〇〇〇〇年を過ごしても一夜の夢のように短い気がするだろう(第七段)
人間の世界で生活していると、命の大切さを忘れてしまう。
しかし、林業や漁業、または生物学者など、職業的に見て人口が多くない仕事に就いている人たちにとっては、毎日が命との関わりを実感しているだろう。
人間はあらゆる生物の中で、ご長寿な生き物である。中には人間よりも生きる生物も存在するが、9割以上の生物は人間よりも早く死ぬ。
引用した一節にもあるように、蝉は命の短さを表す例としてよく取り上げられるが、まさに短命の象徴となっている。
彼らは成虫になってから死ぬまで、その期間をすべて夏の中で終わらす。春秋を知らない。
それに比べれば、何十回も四季を通り越してきた我々がいかに長い命を生きているか思い出させられる。
生きているのだから、好きな事をして未練なく死ぬ。
こういう風潮が強くなってきている気がする。
「好きなことで生きていく」がスローガンになったり、就職先を決める際も好きな仕事かどうかを重要なポイントにおいている。
好きなことで生きて、未練なく死にたい。
これが現在の世間の声であることは間違いないように思う。
その考えはもちろん素晴らしいし、理にかなっている。
好きなことで生きられず、未練を残して死ぬ時代を経て、今はそういった生き方ができる世の中になった。
過去を生きた先人たちは今の世の中をみて驚くだろう。好きな事をして好きな事を言って生きていけるこの時代に羨望のまなざしを向けるに違いない。
しかし、私はこの考え方が、命の短さを忘れさせているように思う。
過去の時代では、好きなことで生きていくことはできず、好きなことを言うだけで処刑されたりした。だからこそ、自分の信念を貫き理不尽さに歯向かう行動力をもった人たちがいた。
彼らの多くは志半ばで死んでいった。
彼らの志を達成したのは、彼らの意志を継いだ次の代、もしくはそのまた次の代であることが多かった。
自分の命をかけて信念のために人生を捧げる人が多くいた。
しかし現在はそんなことはない。戦後GHQのつくった憲法により人は何をしても良いし、何を言っても良くなった。ここが、「好きなことで生きていく」の起源だろう。
こういった世の中で、命をかけるという事は当然起こらなくなった。裁かれて死ぬのは犯罪者くらいだ。
人間は命の重さを忘れ去った。
普通に生きていればまず死なない。
人間は言うようになった。「好きなことで生きていきたい」
それは大抵の場合、欲望からきている。
命を落とした先人たちの「好きなことで生きていく」とは彼らの持つ信念のことだった。自らの信じる正義に殉ずる人生をおくりたいと思っていた。
しかし現在言われている「好きなことで生きてく」とは欲望そのものだ。就職したくない、働きたくない、誰かに使われたくない、楽に生きたい、幸せになりたい、そういった類のものである。
先人たちは欲望で生きる世界を望み命を落としたわけではない。彼らは現在生きていたら、信念のために働き続ける道を選んだだろう。
繰り返しになるが、人間は長生きする生き物である。
それをどう捉えるかはあなた次第である。
正解は自分のなかにある。私の正解とあなたの正解は違う。
この記事を読んであなたは反対意見を持ったかもしれない。それがあなたの正解だ。
せわしなく生きていれば何も成し遂げることなくいつの間にか死期は迫っているだろう。
ゆったりと生き、自分の信念を見つけてから、自分の命をそれに捧げる事が現代の良い生き方ではないだろうか。
コメント