人間を苦しめる欲望・煩悩への対処法

人間を苦しめるものの正体は昔から何度も説かれている。

にもかかわらず、現代に生きる我々はいまだにこれらの苦しみから逃れられていない。今回も、何度もとりあげている徒然草から引用して苦しみを考えてみたい。

 

いつまでも順境や逆境に心労を労するのは、ただひたすら苦を去り楽を求めようとするがためである。楽というのは、なにかを好み愛着することである。この楽を求めることは、やむときがない。人が願い欲するものは、第一には名声である。名声には二種類ある。一つは徳行に対する名声で、もう一つは学才芸能の名声である。第二には色欲、第三には美味を求める食欲である。ありとあらゆる願いも、この三大欲望に及ぶものはない。しかも、この三つは、心理に背く本末転倒の妄想から起こって、多くの煩悩を伴うものである。これらを求めないのに越したことはない。(徒然草第二四二段)

 

仏教が説く人間の煩悩と苦しみの考えと同じである。三大欲求と三大欲望は別のものだ。三大欲望は単に欲望であり、絶対必要でないものがこれにあたる。

兼好法師は三大要望に名声・色欲・美味を求める食欲を挙げている。たしかに、これらが手に入るに越したことがないと考えるのが普通だろう。しかし、これらを追い求めると人間は苦しむ。なぜなら、追い求めていたものにたどり着いても人間の欲望は消えないからだ。これを本末転倒の妄想と言っている。

苦から逃れ楽を得たいはずが、楽のむこうに新たな苦をつくりだすのである。

それほど人間の欲望は果てしない。一番はこれらを初めから求めないことだ。

とはいっても、論理的にこれが正しいことは分かっても、なかなか実行できないのが本音だろう。これらの煩悩を捨てた者は、悟りを開いた仏とされる者だ。並大抵の努力がなければ煩悩を捨てられない。しかし、頭で覚えておくだけでも意味があると私は考える。自分が欲望に駆られている、と感じた際は、この欲望を追っても結局は苦しむだけだと思い出せれば、あなたの苦しみは少なくなる。

 

仏教祖であるブッダは「人生とは苦しみである」と説いた。

悟りを開かない限り、人間は煩悩(欲望)に駆られ苦しみ続けると。まさにその通りであるかもしれない。好きな事をして生きていこうがスローガンのような時代になり、好きな事をしている人がキラキラ輝いているように見える。彼らは見た者を欲望を与えるし、彼ら自身が欲望の塊のような存在ともいえる。そういう人たちを非難しているわけではないが、仏教的視点からみればそうなるという話だ。彼らが追い求めるものは全ては手に入らない。楽の先に苦をつくり続けていることは確かだ。

この時代で、兼好法師のような仏教的観点、すなわち欲望が苦しみをつくるから、それらを追い求めないほうが良いと理解して生きることは大事な思想になってくる。

 

別の言葉に言い換えれば、捨てるという言葉が当てはまる。身の丈に合わないものは捨ててしまおう。捨てづらいと思っても、おそらくそれはあなたの持っていたいという欲望にすぎない。欲望とは必ずしも必要でないものに対する苦しみだ。不必要なものを捨て、身軽に生きてみると、人間の欲望も捨てることができる日がくるかもしれない。

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この記事を書いた人

文系で日本史専攻→システムエンジニア
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