偽善だらけの世の中の、評論家気どりの人たち

現代は一億総評論家時代に突入した。あれこれ批評したがる。知り合いや先生、上司など身近なところから、政治や芸能界、著名人に至るまでとことん批評する。

だが、こうなった世の中を憂いていても仕方がない、世の中は無常であるのだから、今の世を生きるだけだ。

では現代をどう生きたら良いのだろうか?

 

先にも述べたが、一億総評論家時代において、何をしても批判する人がいるということは頭にいれておく必要がある。たとえ社会的に善とされる行動をしても、「偽善」だと言われる。

そういったことを全く気にせず生きていくのが一番良いのだが、人間どうもそうはいかない。やはり人の目、人の評価が気になるものだ。

 

人の心は素直なものではないから、偽りがないわけではない。けれども、たまたま正直な人が、どうしてないことがあろうか。自分は素直でなくても、人の賢さを見て羨むのは、世間の常である。きわめて愚かな人は、たまたま賢い人を見ると、これを憎む。「大きな利益を得ようがために、少ない利益を受けないで、表面を飾って名声を上げようとする」と悪口をいう。自分の心と一致しないことを理由に、このような悪口をいうのだが、これでもってわかってしまう。この人は最も愚かな性分能力人で、賢く変わることはできないし、嘘にでも小さな利益も辞退できないし、仮にでも賢人のまねをすることのできない人物である。(徒然草第八五段)

 

現実では目先の利益を追うくせに、他人には高尚な精神を要求する。これが現代人の本質かもしれない。自分に甘く、他社に厳しい。そんな人が優れた行動力を持つ人を羨み言う言葉が「偽善」である。あの人は偽善者だと声高く批判するが、その人自身はその行動力を持ち合わせていないことが多い。

引用にあるように、人の賢さを見て羨むのは、世間の常である。きわめて愚かな人は、賢い人をみるとこれを憎む。羨むのは一般的なことだが、「偽善」だと悪口を言うのはきわめて愚かな人である。

徒然草は鎌倉時代に書かれたとされているが、もしかしたら当時も評論家気どりの人で溢れかえっていたのかもしれない。そう思えるほど、今の人たちの的を得た指摘をしている。しかし今のようにインターネットで匿名で批評できる環境ではないため、一億総評論家時代とは別次元であったことは間違いないだろう。

 

 

狂人のまねだといって大通りを走るなら、その人はとりもなおさず狂人である。悪人のまねだといって人を殺すなら、その人は悪人である。千里を走る駿馬を見習う馬は千里の駿馬と同類であり、中国の聖帝である舜を見習うものは舜の仲間である。見せかけの偽りであっても賢人を見習うような人を、賢人といってよいのである。(第八五段)

 

これも鋭い指摘であると感心する。見せかけの偽り、つまり偽善であっても賢人を見習う人を賢人という。偽善と呼ばれながらも行動した人のほうが、批評しているだけの人よりはるかに賢人で、善だ。

偽善なんて言葉を使ってしまえば、そもそも全てが偽善になってしまう。

誕生日プレゼントを渡すのも何かを手伝ってあげるのも、全て偽善だ。それはとても素晴らしいことだし、とてもかっこいいことだと思う。そして何より、信用できる。「君の喜ぶ顔がみたいからプレゼントあげるよ」「ぼくの名声のために手伝うよ」そう言ってもらったほうが、もはや信用できる。誰しもプレゼントをあげる時や手伝いをするときはこういった気持ちに多少なりともなる。それが人間である限り、偽善だなんて批判はそもそも成り立っていない。

偽善だと評するだけの愚者より、偽善ながらも行動している賢者になるべきだ。そして、彼らを賢者だと評する時代に移ってくれる日がくることを望もう。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

文系で日本史専攻→システムエンジニア
世の中の役に立つシステムを開発・導入してます。
本ブログでは社会人に役立つライフハック術を発信しています。
あなたの生活にきっと役立つ情報です!
一緒により良い生活を送っていきましょう!

コメント

コメントする

目次