会津藩から学ぶ子どものしつけ方。ダメな大人に育てるな!

清廉潔白という言葉が似合う人は、このご時世少ない。

品行方正・人格高尚たる人物を育たることが「教育」のあるべき姿と思う。

何回か取り上げているが、江戸時代の会津藩の「教育」は極めて道徳的なものだった。そこで育った子どもたちは忠誠心が高く、人格者たる人々が輩出された。

その中の一人に山川健次郎という男がいる。彼は元白虎隊で戊辰戦争を経験した。その後実質流罪と変わらない形で青森県下北半島へ移住されられ、飢餓と寒冷に堪える過酷な環境で育った。のちに国費アメリカ留学の機会を得て名門イェール大学で学び、帰国後は東京帝国大学に奉職し、のちに総長に就任している。これは薩長藩閥政府において異例中の異例であった。なぜなら、元会津藩というのは薩長からすれば賊軍という偏見があったからだ。それを差し引いても彼は東京帝国大学の総長と認められる人格者だった。ちなみに彼は京都帝国大学、九州帝国大学の総長も務めた。

彼は清廉潔白を体現したような人物であり、「終生人格を磨くべし」と生徒に訓示していた。不正を徹敵的に嫌い、明治新政府の腐敗した政治を憂いこう発言している。

「諸君(東京帝国大学生徒)には日本の未来を担う責任がある。まず第一に心がけねばならぬことは品行方正と人格の高尚である。人の成功は信用による。その信用はその人の品行、人格によって決まる。今日、品行に多々欠点があり、人格もさほど高くない人物が、各界を牛耳っている。これらの人々は王政維新(明治維新)の前後において、社会の秩序が紊乱し、社会の制裁力が弱いときに乗じて出てきた人物たちであり、諸君は決して手本にしてはならない。」

痛烈な政治批判のように見えるが、これは政治主導者たちの品格、人格が足りないことを憂いている発言である。武力を背景にしたクーデターで日本を乗っ取った形の明治新政府の人々、とくに薩長人は品格・人格に優れていなかったのは事実だ。特に、酒・女・金を貪った長州人と武士道を貫いた会津人は相容れない性格だった。

健次郎は終生清廉潔白を旨とし、芸妓が出る宴会には出席せず、講演会に招かれても報酬を受け取らなかった。講演料を受け取った際もすぐさまその団体や学校に寄付した。それでいて、依頼されれば全国どこへでも講演へ行った。

彼のような人を作り上げた会津藩には家訓十五か条なる、会津藩の憲法のようなものがあった。

それは次のようなものである。

一、徳川将軍である大君に忠勤を励むこと。これに反することがあれば、我が子孫にあらず。

一、武備を怠ってはならない。また上下の分を乱してはならぬ。

一、兄を敬い、弟を愛すべし。

一、婦女子の言い分は聞くべからず。

一、主君を重んじ、法律を犯すべからず。

一、家中で風儀に励むべし。

一、人に媚びてはならぬ。

一、依怙贔屓(えこひいき)をしてはならぬ。

一、口先がうまい者、正直でない者、心のない者を重用してはならぬ。

一、賞罰には家老以外を参加させてはならぬ。

一、身じか者に人の善悪を告げさせてはならぬ。

一、法を犯す者を許してはならぬ。

一、政治は利害でもって道理をまげてはならぬ。

一、社倉は人民のためにおくものである。凶作のとき以外に使ってはならぬ。

一、領主は武士と人民のために存在する。遊楽を好んだり、贅沢してはならぬ。そのような者は藩主を辞任すべし。

 

というものであった。現代の我々の感覚からすれば大変厳しいように感じるが、会津藩が輩出した面々をみると効果的な教えであったと、私は結論づけたい。もちろん、会津藩には家訓十五か条だけでなく「什の掟」や藩校日新館心得など実に様々な心得が存在するが、今回は家訓十五か条だけを紹介するにとどめたい。

儒教を重んじた藩祖・保科正之の思想が詰まっている。武士道とはなんたるかを体現した会津人たちの信ずるこの家訓から学べることは今でもある。ちなみに、現代言われている「武士道」は新渡戸稲造の著『武士道』がモチーフになっている。会津藩士はその武士道に殉じた人々である。

 

 

現代で指導者層にいる人たちで品行方正・人格高尚たる人物は何人いるだろうか。指導者層だけではない、いま世界に当てはまる人は何人いるだろうか。

そういった清廉潔白な人物が見当たらない中で、教育は「子どもの好きな事をやらせよう。子どもの意志を尊重」といった、健次郎らを輩出した教育とは正反対ともいえる形式になっている。

今一度考え直すべき時期にきたのだと私は思う。

あなたに子どもがいるのなら、教育に会津の教えを取り入れてほしい。そして、品行方正・人格高尚を説き、清廉潔白な人物に育て上げて欲しいと心から思う。

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