ガキの頃の自分は、今の自分を見てどう思うだろうか。
今の自分は、ガキの頃の自分に胸を張って幸せだと言えるだろうか。
人生とは、夢とは、幸せとはなんだろうか。
これは生き続ける限り決して埋まらない心の1ピースである。
ある人は言う。人生は夢だらけだと。
またある人言う。人生は地獄のなかの地獄であると。
あなたは大人?それともこども?
その答えの根拠は?
こういう哲学的な質問を「大人」と呼ばれている人たちは嫌う。
自分たちは大人だと言い張る。
社会がなぜこんな生きにくいか。
会社はなぜ息がしにくいか。
それはすべて人間の性のせいだ。
人間というものは横並びの状態だと力を合わせて協力しあう。
しかしひとたび人の上にたつと急におろかな生き物に生まれ変わる。
会社で例えるならば、平社員だったころは自分は未熟者だと自覚して生きているが、役職がつきだすとまるで自分は優れた人間かのように振る舞う。
その人自身は何も変わっていない。役職や肩書は魔法の力をもっているようだ。
人間なんていくつになろうが未熟な生き物だ。
40や50になった「大人」たちは自分の考えが全てだと勘違いしてしまっている。
こんな社会は生き苦しいに決まっている。「全て」「正解」なんてものは本当は存在しないのに。
管理職の人たちが自分はすごい、正しいと錯覚を持たせるような社会では若い人たちが苦労するだけだ。
しかし恐ろしいことに、若い人が一番それを分かっているはずなのに、彼らも管理職につけば自分の能力を過大評価しだすのだ。
いまの自分はどうだろうか?いま一度自分の立ち振る舞いを見直してほしい。
右向け右で左見て
前ならえで列に背を向け
救いなのだその幼さが
君だけは大人にならないで 月曜日/amazarashi
大人になるとはなんだろう。
「大人」なんていう人間の作り出した概念について真面目に考えても答えなんてでないが、この生き苦しい世の中を生み出している原因をみつけるため、考えてみたい。
大人はルールや規則が大好きだ。右向け右で左見ていたらすぐ怒りにとんでくる。
みんな一緒が正義な世界のようだ。
しかし最近では考え方が変わってきているようだ。
グローバルな考え方で、クリエイティブな個人を評価するようになってきている。
しかし、基盤のルールがっちがちの規則大好きスタイルは変わっていない。
この相反するスタイルこそが、現代の生き苦しさの原因に思われてならない。
どちらも両方というのは無理なのだ。
「大人」はおそらく、クリエイティブな個人を評価すると言うことで満足しているのではないか。
外からの評判はいいのではないか。
そしたらどうだ、他の企業の「大人」たちも遅れをとらないようにと次々と個人を重視するような文言を使い始めた。
結局、「大人」は周りに合わせて行動する生き物なのだ。
もう大人なんだから、みんなと同じことをして、規律を乱さないようにしよう。
変に規律主義で、変に個人主義で。
我々はほんとうに生きにくい時代に生きている。
死は好むべきにも非ず
また悪むべきにも非ず
道尽き心安んずる
すなはち是死所 吉田松陰 安政六年七月
激動の時代を生きた吉田松陰は晩年の獄中でこの言葉を記している。
もちろん彼はこの頃、まだ自分がほんとうに処刑されるとは思っていなのだが、己の死生観を物語っている。
かなり過激な思想を持ち、行動し続け、捕まった当時もまだまだやるべき事があると主張していた。
没年二十九歳。自分なりの日本の未来のために奔走した男だった。
あなたはいま何歳だろう。
20代か。なら松陰の没年とおなじ代だ。
30代か。なら松陰の生きたかった年代を生きている。
40代か。松陰は己のすべきことを成し遂げるのは目前だっただろう。
それ以上か、それ以下か。松陰は夢と日本の未来を憂いていただろう。
死は好むものでも憎むものでもない。ただ道が尽きて心がおさまる場所。そこが死に処だ。
人生を奔走してきた松陰だから言える言葉なのかもしれない。
あなたの道は明日で尽きます。あなたは明日死ぬとして、同じ発言ができるか。そうか、心がおさまる場所だと言えるだろうか。
現代人は大切なことを見落としているのだ。明日死ぬとして、夢半ばだが、人生を奔走した。あとは年下の者たちが継いでくれと言える生き方をしている人などほとんどいない。
人生の使い方を間違えるなと言わせてほしい。
こんな生きにくい世の中だが、あなたはあなたの人生を生きているのだ。
「人生の使い方を間違えないでほしい。」
遠回りしたが、「大人」とは人生の使い方を間違えた者たちだと思っている。
良いも悪いもない。ただそれだけ。
人生の使い方がわからなければ、とにかく本を読むでみると良い。
吉田松陰は月に30冊以上本を読んでいた。そこから己のするべきことを見つけ出した。
読書は人生を広げる。
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