誰かが死んでも回り続ける世界。

ガキの頃の自分は、今の自分を見てどう思うだろうか。

今の自分は、ガキの頃の自分に胸を張って幸せだと言えるだろうか。

人生とは、夢とは、幸せとはなんだろうか。

これは生き続ける限り決して埋まらない心の1ピースである。

ある人は言う。人生は夢だらけだと。

またある人言う。人生は地獄のなかの地獄であると。

今日誰かが死んだから明日が来ないなんてことは絶対にない。

死にたいと思っている人には耳よりな情報だろう。

あなたが死んでもあなたの仕事は他の誰かがやるし、あなたのお金は誰かが使うことになる。

そして世界は変わらず回り続ける。

 

私はこのことを考えすぎて心を閉ざしてしまっていた時期があった。

何をしても一緒なら。死んでも一緒なら、いないのと同じじゃん。と。

その通りだった。

世界とはそういうものだ。

私が死んだら誰が悲しんでくれるのだろうか。

 

戦国の世、幕末の世、大戦の世では、みな明日生きることに一生懸命だった。

現代では人生を豊かにすることにみな一生懸命だ。

江戸時代には、戦乱から解放されてよりよい人生を送ろうとする思想が形成されていた。

現代と同じような考え方だ。平和な世の中に生きているんだから、せっかく生まれた命、豊かにしようぜというものだ。

彼らは士農工商で身分が分けられていたので、なんなら我々よりも窮屈な状況で、どう人生を豊かにするか試行錯誤した。

彼らがどう心をおさめたか。

それは読書だった。

読書によって知識を得て、生活をよりよいものにしていったのだ。これは武士の話だけではない、民衆もほとんどが読書をしていた。農作業中に本を携帯していた百姓もいたと記す史料も残っている。

彼らは読書を通して、戦国武将の生き様・仏教の死生観・哲学・宇宙の起源・道徳・忠孝・日本神話などの教養をもっていた。現代ではこの知識を持っている人の方がはるかに少ないだろう。

これらはどれも生きることについてヒントをくれる学問である。(ちなみに私は現代で人気の学科は人生を考える上で全く必要ない知識しか身につかないと思っている。)

なので彼らはみな一人ひとり自分なりの死生観をもって自分らしく生きていた。

 

現代では

「やりたいことがわからない」「好きな事は特にない」

と口にする人が多すぎると思う。

しまいには、「好きなことで生きていく」がスローガンになったり、「やりたいことをやっている人ってかっこいい」という違和感しかない言葉がでてくる。

やりたいことがわからないのではない。自分の人生を考えるための教養が身についていないだけだ。

江戸時代の人々が学んでいた学問を学ぶ機会は学校にはない。教えるべきなのに、そうしない。

特に、仏教や哲学などを学んでいると変わりモノのレッテルを貼られやすい時代だからなおさらか。

しかし安心してほしい。やりたいことがわからないと言う人は「人と違う事がしたい」と言うのだ。やりたいことがわからないが人と違うことがしたい。要は人とは違う人生を送りたいということか。

ならば人生を考える上で役にたつ上記の学問を学んだらいい。確実に、教養のない他の人たちとは違った人生になる。そして、人生は深いものになる。

「成し難きものは事なり、失ひ易きものは機なり。

機来り事開きて成す能はず、座して之れを失ふものは人の罪なり」  

安政五年三月 吉田松陰

この記事に辿りついたことを機と捉え事を成すか、座ったままこの機を逃すかはあなたに委ねる。

 

だいぶ遠回りしたが、私は歴史や偉人、仏教や死生観を学んで自分の人生を見つめなおした。

たしかに世の中は誰かが欠けたところで何一つ変わらない。

しかし、生み落とされてしまった以上、生き抜いてやろうと思う。

世の中を変えようと思うから自分の無力さを実感するのだ。自分を認めてほしいと思うから自分の無力さを実感するのだ。

それは生き方ではない。教養のないものの悪あがきだ。見るに堪えない。

教養を身につけ、自分の人生を歩む。

それが、この世界での生き方なんだと、しみじみ思う。

 

合わせてことらも目を通すことをお勧めしたい。

世の中は不公平だと言う人へ。
ガキの頃の自分は、今の自分を見てどう思うだろうか。 今の自分は、ガキの頃の自分に胸を張って幸せだと言えるだろうか。...

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