ガキの頃の自分は、今の自分を見てどう思うだろうか。
今の自分は、ガキの頃の自分に胸を張って幸せだと言えるだろうか。
人生とは、夢とは、幸せとはなんだろうか。
これは生き続ける限り決して埋まらない心の1ピースである。
ある人は言う。人生は夢だらけだと。
またある人言う。人生は地獄のなかの地獄であると。
正解なんて無いくせに
正解なんて言葉を作って
己の明日さえ縛り合う我ら
女々しさも罪も不名誉も
一人懺悔したら歌になった
許されざる人らよ歌え リビングデット/amazarashi
正解なんて言葉はあっても、正解というものは無いのかもしれない。
哲学者の論文のような、屁理屈の運動会になってしまう可能性があるので「正解」という言葉について深い追及はやめておく。
しかし、
「人生に正解なんてないよ」
なんて言葉はよく耳にする。
だいたいがネットビジネスで成功し就職していない20代~30代か、60過ぎの方たちが好んで発言している。
なにやらしたり顔でこの言葉を投げかけてくるが、こちとら
「知っとるわ」
という話である。
人生に正解は無いにしても、あの人の人生は良いなあ。
だとか、
あの人は波乱万丈な人生だね。
なんて会話は生まれている。
この違和感はなんだろうか。人生に正解はないのではなかったか。
そこで、私は人生に正解はないが点数はあると考えた。
簡単に言えば、人生とは入試問題でいうマークシート問題ではなく、小論文であるということだ。
小論文に正解なんてないが点数はある。そして同じ小論文は存在しない。
まるで人生と同じだ。
小論文は起承転結がしっかり成っていないと高得点は望めない。
さらにいえば、我々の人生は結の章までいかない限り何点の人生かなんて想像もできないわけだ。
書店でやたら評価の高い小説は結の章で大どんでん返しがあり読者をあっと思わせる。
さあ、我々の人生はどうなるだろうか。
ぼーっとしていたらこんなところまで自分は来ていたと後悔しているようじゃあつまらない作品になってしまう。
絶対なんて無いくせに
絶対なんて言葉を作って
何故成せぬと
見張り合う我ら
劣等感も自己嫌悪も
底まで沈めたら歌になった
死にきれぬ人らよ歌え リブングデット/amazarashi
絶対という言葉ほど信用できない言葉はない。
絶対とは100%という意味だそうだ。
こんな滑稽な話はないだろう。
「絶対に成功させます!」
世の中に蔓延っている薄っぺらい熱意の表現方法だ。
日本ではこれを言うものは頼りがいがあると思われるらしい。
特に若い者が言うと、
「その無鉄砲さ!若いねえ!どれ、やってみてごらんよ」
のようなくだりになるらしい。
まるでショートコントを見ているようだ。
劣等感も自己嫌悪も底まで沈めたら歌になった。
死にきれぬ人らよ歌え。
死にきれぬ人らとは言いたとえだ。
我々のことだ。
生きているわけではなくただ存在しているだけ。
死にきれぬ人は何があれば「生きて」いけるのだろうか。また、何があれば「死にきれる」のだろうか。
どちらにせよ、割り切れない今が一番辛いのはたしかだ。
私は自分なりの見解で、がんばることを諦めた。
一所懸命がんばります!
というようなモチベーションで「存在」していると自分の人生はなんて無駄な時間をおくっているのだろうと思えてくる。
がんばることを諦めた。
意外と以前よりも、何事も上手くいくようになった。
肩の荷が下りたというヤツだろうか。気を張らずに行動できるため無駄がなく要領が良い。
「正解」も「絶対」もない人生。
気張らずのんびり生きる道を選ぶのも悪くない。


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